民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

見える物と見えないモノ

2015-06-01 16:38:39 | 民俗学

土曜日に、長野県民俗の会の例会で旧大岡村(現長野市)へ行って、石造物を見てきました。大岡の石造物は数が多く、素朴な像様で素人が彫ったのかと思わされました。山や岩の上に祀られていたりして、さすが大岡だと思わされました。ところが、こころひかれたのは聖山が南北の分水嶺となっているということで、戸隠のような水分り信仰がみられたことです。正月に、聖山を水源とする村々の代表が高峯寺に参拝し、護摩をたいていぶした柳の小枝にはさんだお札をもらって帰り、田んぼの水口に供えるというのです。修験者が伝承したという仏像や仏器が歴史民俗資料館に保存されていました。また、大岡3000石といい、標高は800メートルと高いが水のあるところはみんな棚田として利用し、想像以上に人口も多かったようなのです。ここから、聖山から出て周辺の村ムラを仏像を納めた木箱を背負って白装束で跋扈する修験者の姿を夢想したのです。犀川と千曲川にはさまれた大岡、麻績、生坂、坂北、本城、青木、四賀などの旧村は現在は人口減少が続き、限界集落の連なりのように思ってしまいますが、鉄道が普及する以前は、尾根道を通じて意外に近く、高地としての一つの文化圏を形成していたのではないかと思われます。その指標の一つは、藁人形ではないかと思うのです。藁で作った人形に厄をくっつけて流す、あるいは焼くといった行為が、この辺りに点々とみられるのです。人形に厄を背負わせるという、何かオドロオドロしい考えは、修験が持ち歩いた考えではないかと想像するのです。大岡で藁で道祖神を飾るという習俗は、比較的新しく明治になって創作されたものではないかといいますが、そのバックボーンとして、藁で人形を作るという文化圏があったのではないかと思うのです。

私たちは平らで見渡せるとこばかりみて、そこに文化圏を設定しがちです。そして、その中心に都市・町を置く。もちろん文化は高い方から低い方に流れるといいますから、そうしてできた文化圏はありますが、そればかりではないと思うのです。いくつもの山の中の村が信仰の力で結ばれて、文化圏を形成することだってあるはずです。現代の交通の便利な場所ばかりが結びついていたと考えるのは、今見える物だけを見ているのであって、見えていないモノが他の場所に実はたくさんあるのです。見えないモノを見るのは、必ずしも行者だけに可能な仕事ではないはずです。本当の学問は一般の人には見えないモノを、見える物にすることだと思うのです。