民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

安倍首相談話

2015-08-16 18:29:49 | 政治

すったもんだと、かなり前から話題となっていた戦後70年の安倍首相談話が出ました。一言でいうなら、長すぎて論旨が明快ではありません。もしかしたら、文言を薄めることでわざと内容をわかりにくくしたのかもしれません。私が気になったのは主語です。首相がどう思っているかを内外に示すのが目的のはずなのに、主語の多くは、われわれ(we)か、我が国(japan)となっており、Iとなっているのは極一部なのです。私は思う、考えるとはいいたくなかったのでしょう。戦争責任、原発事故、国立競技場の再建等、どれも責任の所在があいまいで突き詰めていくと、悪い人は誰もいないみたいです。数か月前でしょうか、ドイツでアウシュビッツ収容所の事務かなんかしていた90歳くらいのおじいさんが裁かれて、有罪判決がでました。収監されるのですね。この件で、かわいそうにただ歯車として働いただけで、ある面本人も被害者なのに裁かれるとは、といった投書を読みました。そうです。この感じ方が、日本とドイツでは大きく違うのです。日本人は、歴史の大きな流れの中に身を置かざるを得なかったのであって、個人としての責任を問われる筋合いはない、と思います。この談話にもそうした考えが底流となっていることを感じます。植民地獲得競争から談話を説き起こし、ブロック経済からはじき出された日本は孤立し、「進むべき針路を誤り、戦争への道を進んでいきました」。あたかも仕方がなかったといわんばかりです。そして、「何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。」、私は痛切に反省しお詫びを申し上げます、とはいわず「歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです」とくる。歴史という非常なものが主体となって、あたかも日本を動かしているかのような冷めた見方、もしくは仕方なくあげた謝罪っぽい文言でしょうか。いやいや取り上げているという気持ちが表れています。

談話の中の、「私たちは」という文言には、この私も含まれているのでしょうか、それとも内閣に属している人たち?自民党の人たち?国会議員?。この私たちという表現は、いやですね。少なくとも積極的平和主義の旗を掲げる「私たち」には、私は含まれていませんし、含まれたくないという日本国民は多数いるはずです。

何するかわからない駄々っ子が、いいかい今度人前に出たら普通の人みたいに振る舞うんだよと何度も教えられ、説諭されて人並みにできたから身内の者は喜んでも、周囲の者にしてみれば当たり前のことが当たり前にできただけのことですから、ほめるような事柄ではありません。周辺諸国に波風を立てなかったといってほっとされるようなものを、何でわざわざ発表する必要があったのでしょうか。


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