民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

この国の「歴史」の終わり

2015-08-20 15:45:33 | 歴史

町を歩き、路地に入ってみて最近感ずるのは、空き家が多いということ。今年の夏は例年に増して暑いせいか、雑草の伸びもよい。屋敷の周りの雑草は、ちょっと知らないでいると、すぐに根をはやし丈をのばしています。私の実家も空き家にしているが、数年前からは除草剤を噴霧している。それでも1ヶ月に1度くらいは噴霧しないと、また伸びてきてしまいます。できるだけ薄めて草以外へのダメージが少ないようにしているせいもあるかもしれません。で、街中の家で屋敷周りに雑草が繁茂していると、空き家だとすぐにまかってしまうので、空き家が多いことが目についてしまうのです。と同時に、何軒もの空き家を更地に戻して、プチ開発をして街中の景観がかわった所もあります。しゃれた戸建住宅が建ってしまうと、以前に何があったかさっぱり思い出せません。何があったかわからないといっても、古い家があったことは間違いないのです。そして、壊された家が古ければ古いほど、その家にあった歴史つまり文書だとか伝承と言ったものの集積が詰まっていたと思うのですが、プチ開発された地域をみますと、更地を作って分譲地にしていますから、前に住んでいた家族が歴史を引き継いで同じ地面の上に住んでいるということは、まずありません。文書や民具があったとしても家を壊した時に同時に処分されてしまうでしょう。現実にそうした話を聞いたことがあります。

昨日、若山牧水の長野県における高弟の一人の方のお宅へ行って、牧水関連の書簡を展示のために借用してきました。その方はおそらく90歳前後になられると思うのですが、牧水の高弟に当たる方の一人息子がシベリヤに抑留されて亡くなってしまったので、親戚から養子に入ったのだと話してくださいました。今は広い家に一人暮らしで、ヘルパーさんや訪問看護の方などに頼って生活しています。牧水や妻の喜志子の書簡を整理して保存されていますが、一人暮らしのこの方の亡き後は、そうした史料はどうなるのでしょうか。同じように、古い家々にはその家や地域の歴史を物語る文書が、まだまだ数多く眠っているはずです。ところが、人口減少社会です。古い家は次々と取り壊されていきます。災害レスキューとかいって、文書を救わなければいけないと活動されている人もいますが、もっと大きな流れの中でこの国の歴史は失われつつあると感じます。これまでは、人が定住し何代もにわたって同じ家に住み続けるのは当たり前と思われていた社会から、もっと流動的な世の中に変わりつつあります。そのこと自体をいいとも、悪いともいってみても仕方のないことですが、世の中が変わりつつあるということはもっと人々が認識しなくてはならないと思います。新しい世の中のグランドデザインを政治家は示して、地域社会や国全体を誘導しなくてはならないのに、国の形を守るとか、国際情勢の変化だとか、打ち上げ花火のような話題に国民の目を向け、本当に見なくてはならない物を見ようとしていません。

これからは、この国の人々は過去とのつながりが切れた現実社会という中だけで暮らしていくようになるのでしょうか。


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