民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

深志神社の舞台

2013-09-07 20:58:28 | 民俗学

松本近辺では、祭りにくりだされる山車をブタイ・ブテン、安曇野影響の強い所ではフネなどと呼びます。祇園祭りが地方の町場にも及んできて、ヤマホコをブタイと呼んだものと思われます。なぜ舞台かといえば、中で子どもたちの祭囃子が演奏されることから、これなブタイだと言い慣わされたのではないでしょうか。そのブタイの話を今日は、深志神社の神官の方から聞いてきました。旧松本市内は、南側を深志神社、北側を岡宮神社の氏子としています。深志神社は一般にテンジン(祭神の1つが天神様だから)といい、7月24・25日が例大祭でビョウブマツリともいいます。これは、市内の商家で所有する自慢の屏風を表に出して飾り、道行く人々に見てもらったことに由来するものです。各町内会で所有するブタイは、その町の力量を示すものとして豪華さを競い、江戸時代以来今に伝わっています。ただし、今回の発表でわかったのは、50~60年ほどすると周辺郡部に売却され、新しい意匠をこらした舞台が作られました。現存するブタイは新しいもので、江戸時代に作られたものは、売却された周辺のムラに残っています。ブタイを新築するのは並大抵ではなく、2~3年もかけて町内でこつこつを積み立てて、ようやく制作となりました。そこまでして新しくするのはなぜか不思議に思われます。ブタイで客を呼ぶという戦略もあったのでしょうか。舞台の上では、子どもたちが太鼓とチャンチャンをたたいて、お囃子を演奏しました。ただ、メロディーを奏でる横笛は、フエシといわれる大人が演奏したのです。フエシのリードで子どもたちはお囃子を演奏しました。ブタイには町内の子どもが乗って演奏するのが大事なことで、子どもが乗らない舞台をひくことは、「カラグルマヲヒク」といって、地元の人には屈辱的なことだったそうです。
お囃子はフエシが指導しました。ところが、フエシは地元の町の人ではなかったのです。フエシは町内を流れる薄側上流の、山辺の人でした。山辺にも立派なブタイがあり、村の中を練り歩きます。ところがそれは5月ですので、地元の祭りを終えた笛の上手なフエシが、着流しで夕涼みを兼ねてマチに下ってきて、子どもたちに指導してくれたのだといいます。これについては、巻山さんが松本市史に書いていることですが、今日の発表を聞いていた参加者の方が、ブタイに乗った自分の子どもの頃を思い出したと言って、こんなことを語ってくれました。山辺からくるフエシの人は、自分で持ってきた酒を笛の中を通して洗い、生卵を飲むと、「さあやるぞ」と子どもたちをうながして、練習が始まったといいます。田舎の大人がマチの子どもを指導することで、マチの祭りが初めて成り立つというところに、私はウキウキとした思いを感じます。その山辺からは、地元の小学校に通わせることを保護者が嫌って、マチの小学校に入学者が流れています。こいつはどうなんでしょうか。山辺のフエシはマチで子どもたちへの指導が終わると、笛を吹きながら帰っていったといいます。何と風情のある光景ではありませんか。 


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