民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

東北で見て考える 2

2013-06-18 09:57:31 | Weblog

1日目は仙台駅前のホテルに泊まり、翌日午前は語り部タクシーを依頼して、仙台市の被災地、蒲生地区・荒浜地区、名取市閖上地区を案内してもらい、午後は自分の車で石巻市門脇小、大川小を見て、海岸沿いを気仙沼まで北上しました。

   

蒲生・荒浜・閖上ともガレキの撤去はすみ、土台ばかりが残った広大な土地がむなしく広がっていました。そんな中に、石灯籠がいくつも設置され、物置のようなバラックが作られ、花が咲いている箇所がありました。寺の後かと見に行くと、一人のおじさんがいました。ここは危険区域に指定され、家を再建することは許されていない。震災直後は、自分の土地なのに立ち入ることも禁止された。だけど、俺は入った。自分の家に帰るのを誰も止めれはしねえ。そして、自分の家から流されたいくつもの石灯篭をがれきに中から拾ってきた。みんなそうしねえから、ガレキと一緒にどっかへ持ってかれちゃった。今も、仮設で毎日かあちゃんと顔つき合わせていったってしょうがねえから、毎日ここへきて片附けたり花作ったりしてる。と話してくれました。蒲生も荒浜も、この地に家を再建することはできないそうですが、仮設でノイローゼになったおばあさん、ここで作業をする多くの人達のために喫茶店を始めた人など、わずかに残った(再建した)家屋に暮らしている人はいるようです。真中の画像は廃校となった荒浜小学校、右は小高い日和山から見た荒浜地区。周囲はみんな土台ばかりが残った土地です。野原のように見える上には、全て人々の暮らしがあったと思うと、言葉になりません。

  

左は閖上中校舎の時計です。地震が起きた時間で時が止まっていました。まさに、この地区の時間は、この時に止まったままなのでしょう。広い閖上地区ですが、行政は3メートル以上盛り土をして、現地再建をめざすが、地元には集団移転を望む声が多く、なかなか先の展望が見えないといわれていました。右は学校前の歩道ですが、撤去されないままに残っている家も目につきますが、歩道の脇のフェンスが大きく曲がっています。反対側の歩道のフェンスも曲がっています。満ち潮と引き潮の両方の力で曲がったそうです。

  

左は門脇小です。津波は2メートルばかりだったそうですが、流されてきた車のガソリンによる火事で焼けてしまいました。立ち入を防ぐために校舎には網がかけられていましたが、網の上部に、「すこやかにそだて 心と体」という標語が読めて、やりきれなさがつのります。右2つは、大川小学校です。避難のありかたについて、訴訟で争われています。校庭に作られた次の写真の慰霊碑を見ても、1枚の石では収まらないほど子どもばかりでなく多くの住民の皆さんが、津波で命を落とされたことがわかります。とはいえです。

校舎裏(裏といっていいか、後で問題にします)の写真を見てもわかるように、登ろうと思えば急かもしれないが山があることを想えば(仙台の荒浜や、閖上では見渡す限り平坦地で高台がありません。逃げるには、学校しかありませんでした。この地区での学校の重要性がよくわかりました。)、どうして山に逃げなかったのかとは、誰でも思います。これについて自分が思ったのは、山に向かってアーチ型に開いた校舎の造りです。大川小はどっちを向いていたかといえば、山なのです。(いいや川を見て暮していたのだという人もあるかと思いますが、山に向かってアーチを描かせた設計者の意図は山を向いていたに違いないのです。)山に向かって職員と子どもの視点は、焦点を結ぶように設計されていました。かなり斬新な設計です。道をはさんで校舎の反対側は北上川で、河口にも近いのです。しかし、毎日山を見て暮していれば、ここが海の近くで津波の危険が高いことをどこかに忘れてしまったのではないでしょうか。無残な校舎の姿を見ると、どんなに大きな力で津波が押し寄せてきたのかが想像され胸がつまります。

 


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