蔵書整理のなかで、大江の『水死』がでてきました。買ったきり読んでないのかと思い、少し読むと、アレ読んだような?多分途中でいやになって、中断したままになったと思います。高校生のころから大江を読み始め、読み継いできました。そしていつも、読み始めはいやになるのです。なかなか物語世界にはいっていけず、退屈になります。それを我慢して、中ほどまで読んでいくと段々様子がわかってきて、最後は物語に引き込まれるように読んでしまいます。若い時は、暑い季節のどうしようもない時に、どうしようもない文体の大江をウンウン唸りながら読むのが常でした。CDがでたり、英語の教科書にのったり、ノーベル賞もらったり、沖縄の虐殺に関して訴訟を起こされたり、いろんなことがありましたね。読者である私も著者と一緒に年をとってきました。この歳になって、これほどひどい世の中がやってくるとはと、作家も思っていることでしょう。ノーベル賞もらった時には、以後小説は書かないようなことをいっていて、それでも書いた『水死』で本当に最後かと思いましたら、これが本当に最後と最近また本が出ましたね。ラストコンサートといっては、何度も客を集める手法があるみたいですが、まさか本を売るために大江がこれで最後といい続けているわけではないでしょうが。
『水死』の最後をどう解釈すればいいのでしょう。森と創造力から、女と救いの物語に転じ、最後は森と女で締めくくられたのか。今を生きる人の生と、森(土地)の記憶とが重なって、本歌とりのように 物語が重層的に進行するのは、現実の私たちの暮らしにもあります。安倍さんのように、壮大な勘違いの重層性を生きている人もいます。
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