民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

網野善彦に寄せて

2016-12-26 13:58:52 | 読書

『無縁・公界・楽』という本を準備していた頃に網野さんがいだいていた基本的なモチーフを、私は自分のやり方で、おおよそつぎのように理解している。人間の本質をつくっているのは自由な意志であり、それが人間と動物を分けている(この点は平泉澄の出発点と同じである)。自由であるということは、言語や法の体系を自然とはまったく違うやり方で、自ら構成できるという意味をもっている。すると構造主義が言うように、言語も法も恣意的な体系としてつくられ、それが今度は人間を拘束する力をもつようになる。自然が決定しているものから自由でいられる能力が、逆に自由な人間の本質を否定するようになるわけだ。
 そのとき人間の中に、さらに根源的な自由を求める欲望が発生するのである(このことは平泉澄のような人がまったく思いもつかなかったことである)。人間は自然の決定するものから自由であることによって、言語や法や社会的規則の体系をつくりあげ、その体系の高速にしたがって生きるようになった。そのとき同時に、人間の中にはそうした規則の体系を乗り越え、否定していこうとする新しい欲望が生まれる。 中沢新一『僕の叔父さん網野善彦』

 久しぶりに本の世界に引きずり込まれ、読み通してしまいました。中沢新一が書いた網野善彦評伝といえば、それだけで面白そうだと思えるのですが、そこにオジ‐オイという血縁関係の思い入れが入ってきますので、勢いペンは走り話は具体をおびてきます。この本をよみつつ思ったのは、小熊英二が父について書いた本を読んだ時にも感じたのですが、頭のいい人はどうしてこんなにも小さい時からの記憶が確かなのだろうということです。5歳で初めて叔父となる人に会った中沢少年の記憶が、風景にいたるまで鮮やかなのです。こんな叔父がいたら、こんな甥がいたら話ははずんだことだろうと私にも想像できます。また、中沢少年の知性を育んだ中沢家の知の系譜にも驚きました。さもありなんといわせる環境で、強靭な知性は磨かれるのだと思わされたのです。

 網野さんのアジール論の形成過程がよくわかります。そして、網野さんが「自由」についていかに深く考えていたかが、中沢新一との交流の中から浮かび上がります。そして考えました。最近、学校関係の話題で「いじめ」「教職員の不祥事」が毎日というほどとりあげられます。対応といえば、謝罪・研修と決まっています。同じことの繰り返し。私は「いじめ」「教職員の不祥事」に「不登校」を加えて、学校における「自由」の問題をからめて議論すべきだと思います。強く拘束すれば問題はなくなるのか。教職員を規律で縛れば問題はなくなるか、問題行動を規則で縛ればいじめはなくなるのか。人が根源的もっている「自由」を渇望する欲望を抑え込もうとするのが学校という近代以降のシステムでしょうが、それが疲弊しているのではないでしょうか。 当たりまえのように飼いならしたつもりの、「自由」とその前提となる見た目の「平和」がひっくり返されて、底にある根源的な無秩序、根源的な自由が表に姿を現してきているのが現代社会ではないでしょうか。だとすれば、中世以来の歴史の転換点に立って、私たちはもう少し世界の現実の深層をみつめなければなりません。


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