民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

死へのケガレ観はなくなったのか

2013-09-12 13:25:32 | 民俗学

10年以上も前から葬式の変化が気になり、追い続けています。当時は、葬儀社が自前のホールを建設し、寺や公民館から葬儀社のホールへと会場が変わっているときでした。自分は、婚礼がそうだったように葬式も葬儀場でやるようになるし、坊さんも会場専属の人になるだろう、婚礼の会場専属の牧師や神官がいるように、と予想しました。変化は思ったよりも早く、今や「終活」定番化 本も人気 などという新聞の見出しがでたり、テレビ番組でも頻繁に取り上げられるようになり、人々は普通に死と向き合うようになった、かのように思われます。しかし、それは本当でしょうか。自分の死に装束を自分で選んで着てみたり、棺桶に入ってみたり、エンディングのテーマ曲を選んだりしても、それは自分のことですし、所詮は架空のことであり、現実の死と向き合うものではありません。現実の死と接したとき、ケガレ観はなくなったのでしょうか。

3年ほど前に塩尻市の中心部、本当の市街地に葬儀場がオープンしました。これまでの葬儀場は、比較的目立たない場所や、住宅街の中ではないような場所に立地していましたから、市街地の真ん中にというのは大胆な立地でした。建設計画が持ち上がると、近隣住民は反対署名をしました。こんな町の真ん中で毎日葬式なんて縁起でもないということです。この反対運動は新聞にも取り上げられました。しかし、反対運動といっても温度差があったようです。すぐ近くの町会は全員反対だが、遠くなるにしたがって、あってもいいじゃないかと。大手スーパーが撤退した跡地で立地的には申し分ないから、同種の飲食店などの施設をと市も考えたようですが、人口が少なく商売として成り立たないようなのです。広い土地が更地で残ることは、見た目も治安上も悪くて、ぜいたくはいってられないということになります。何回かの説明会の後、葬儀場は建設されました。

葬儀場では、客は来ては帰っていくだけで地域の活性化につながらないから、皆の集まれる場所をという地域の要望をいれて、敷地の一角にレストランもオープンしました。そして、施設は塀などで目隠しされることなく、周囲の道路からよく見えるように設計されています。あえてオープンにしたように自分には思われました。そして、月に1度は広い駐車場を使って朝市をやり、その日は施設も解放されて、参加者は中に招かれ職員がお茶などをふるまってくれるそうです。そうなれば、近隣の人はもう何とも思っていないかといえば、この件について住民の方に聞き取りを試みると、皆さん口が重いのです。差しさわりがあるので、話せないという人もいます。マスコミがいうほど、人々が日常的に死と向き合うようなったなんていうのは、ほんの一部のことで、まだまだ死ほケガレ観は根強いものがあります。


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