民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

「大嘗祭の本義」再考ー5

2019-07-15 10:52:51 | 民俗学

折口は「貴種誕生と産湯の進行と」(『國學院雑誌』昭和2年10月号)で、貴人の誕生について以下のように述べている。

貴人について、そのみあれといふのも、うまれるといふことではなく、あらはれる・出現・甦生・復活に近い意味を現はしてゐる。永劫不滅の神格からいふと、人格の死滅は、ただ時々中休みと言ふことになるだけである。皇子・皇女の誕生が、それであって、このみあれがあったのち、更にみあれがあることが、即、天位に即かれる意味に外ならないのである。つまり、天子になられる貴人は、二回のみあれが必要であるといふ事になる。

つまり、貴人が改めて天皇として生まれる(現れる)儀礼が、「大嘗祭」だといいたいわけである。赤坂憲雄は『象徴天皇という物語』(ちくまライブラリー46 1990)で折口のいうところの「天皇霊」をとりあげ、詳しく考察している。そして、岡田荘司の折口批判について、「大嘗祭が一世一大の、天皇が天皇になるための王位継承の祭儀であるのだとしたら、そこには王としての神性ないし聖性を賦与する儀礼のメカニズムが、いかなる形であれ組み込まれていなければならないはずだ。岡田の解釈からは、それがすっぽり欠落している。岡田説が王位継承祭儀としての大嘗祭の解読という意味合いにおいて、かぎりなく平板で貧しい印象しか与えないのは、むろんそのためだ。たんなる稲の収穫儀礼に還元することでは、大嘗祭の基層はまるで解明されたことにはならない。」と批判する。全く同感である。岡田の王権についての無理解な結論は、悪しき文献至上主義だといわざるを得ないだろう。

折口説をもっと敷衍するならば、「大嘗祭」を、新天皇の擬制的死と復活の儀礼だとも大雑把にはいえまいか。すると、新たな妄想が浮かぶ。悠紀殿・主基殿で同じ儀礼が繰り返されるようにみえるが、原初には死の儀礼と誕生の儀礼だったのではないかと想像するのである。2度の湯あみは、湯かんと産湯にあたるのではないか。こんなことは具体的な儀式の中からは実証できないことはわかっているが、折口がマナという民族学的知から「天皇霊」なる用語を探しだしたとするなら、「死と再生」という民族学的知から、儀式の中にその痕跡でも探すことはできないだろうか。


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