ヤスジロウのdiary ♪

未だみぬ過去を探し求めたい

紫式部をしのんで塩津浜 ~からき道なりや~

2023-03-28 | クロスバイク

23・3・28 Tue  

その頃の日本の人口は約600万人、遷都から200余年を経た平安京の人口
が約10万人。政治の実権が貴族から武士へと移ろう時代の中で藤原氏は
全盛期へと向かい、枕草子が記されて幾年が経とうとしていた996年国替
で越前守に任じられ越前国府へと下向する父藤原為時らと共に紫式部は
そこで一年半余を過ごすこととなった。
ちなみに、安部晴明は76歳。詮子が死去(1001)し朝廷の意に背くこと
と知りながら追儺を実施し器の大きさを知らしめ85歳(1005)で死去す
る9年前のこと。

今回はその石碑がある総社(この国府の位置は今も定かではない)から
紫式部が帰京したときに辿ったであろうその道程を、自分の妄想力と経
験を頼りに繋いで走ってみました(6:30)。

 

 

 

武生市街を抜けて旧北陸道を辿って先ずは湯尾峠(7:34)を越えて今庄宿
(8:02)へ。敦賀までの道中では明治天皇御小休所の碑を多く目にしまし
た。

 

 

 

北陸道は今庄から鹿蒜川に沿って二ッ屋川出合の新道へ。ここで奈良時代
からの中山峠越えの旧官道と分かれて木ノ芽峠(9:25)を目指します。
830年に二ッ屋川沿いに拓かれた道を辿ってゆくと笠取峠、木ノ芽峠を越
えて新保から葉原を繋いで快適に下って行きます。
北陸道は葉原の外れ(鷽河内の北側)で田尻からの旧官道と出合って尾根
を乗越して越坂へと入って樫曲を通って敦賀へと至るのですが、木ノ芽川
沿いの快走路に心が向いてしまった僕は越坂へ入る機会を逃してしまいそ
のまま敦賀市街をパスしてズルズルと坂下まで来てしまいました…。

 

 

 

 

やはり越前国一之宮の気比神宮へ寄っておけばよかったなと思いつつ、
そのまま木ノ芽川沿いに下って深坂峠の北口になる疋田(10:57)へ。
疋田のシンボルとなっているこの舟川は紫式部が通った頃にはなかっ
たようだ。1817年に舟川の試運転が始まり1834年に廃止。1857年小浜
藩により再開通されるが1866年の大洪水により壊滅。なので今の舟川
は遺構として整備改修されたものらしい。

 

 

 

 

さて、疋田を過ぎた追分から深坂越です。今の季節、沓掛へ至る4・5km
標高370ⅿの深坂越には陽射しが降り注ぎ、小沢のせせらぎが清々しい。

 

 

 

深坂越(11:46)から大川沿いへとつづく塩津街道を辿って沓掛(12:10)へ。

 

 

 



さて、紫式部が輿から舟に乗り換えた湊の場所はどの辺りだろうか。もし
自分が舟を着けるなら大川の河口から数百メートルほど遡った一帯に湊が
あるといいかな…、そんなことに思いを巡らしながら景色を眺めました。

 

 

 

大川が琵琶湖へと注ぎ込む塩津浜(12:35)で今回の紫式部をしのぶ道程
は終了です。
ここ塩津浜で輿から舟に乗り換えて水路で大津へと向かっていったであろ
う紫式部一行の姿に思いを馳せながらこのまま京都の蘆山寺へと繋げられ
るとよいのでしょうが今の僕にはそんな力はありません…。なので塩津浜
を後にして自宅へ帰ることにします。

 

 

 

 



木之本からR365を栃木峠に向かって走っていると災害復旧の看板が幾つ
と立って福井県側の通行止を知らせていました。そうなると県道140号の
柳瀬トンネルは自転車や歩行者の通行はできないので、咄嗟の思い付きと
それに伴って湧いてきた苦渋の選択の末に倉坂峠(14:41)から柳ケ瀬山
を越えて刀根へと抜けました。その後、池河内(15:21)を経由して葉原へ。

 

 

 

 

葉原から旧北陸線のトンネル群を辿って今庄(17:00)へ抜けて帰宅
(18:20)しました。
久しぶりとなるバイクでの長時間行動はとても疲れました。後半にな
ると休憩や飲食の補給も多くなって帰宅したときにはフラフラになっ
たけど、こうして行けてよかったです。

DST 150㎞