ラノベのなかの現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア (講談社現代新書) | |
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講談社 |
☆ライトノベル、ラノベと呼ばれる作品群
☆1989年の昭和と平成
☆冷戦とポスト冷戦
☆ポップとライト
☆オタクとぼっち
☆ポストモダンとポストポストモダン
☆の断絶を象徴しているという考え方は、
☆オールタナティブモダニズムに生きる私には
☆新鮮だった。
☆オールタナティブモダニズムは、社会主義的排除社会も嫌いだが
☆高度資本主義的格差社会も嫌いだ。
☆必ずその両者を乗り越える未来があるという成長物語を信じている。
☆一方高度資本主義的格差社会は、大量生産・大量消費・大量移動によって
成長神話という大きな物語を信じてきた。
☆ポストモダンは、消費者立場にたって、快適物語として高度資本主義をメイクしようとしたが
☆それはできなかった。
☆アベノミクスは、高度資本主義としてのモダニズムへのノスタルジーかもしれない。
☆東京オリンピックがその象徴のようにもみえる。
☆しかし、ライトノベルは、
☆成長物語も
☆成長神話も
☆快適物語も
☆信じていない。
☆郷愁も未来もいまここでも存在の重さを感じない。
☆そのどこからも自由な軽さを求めrているように、
☆本書を読むと感じてしまう。
☆ライトとかぼっちというのは、
☆成長物語も成長神話も快適物語も抜けられないでいた
☆過去・現在・未来という時空の物語概念を逆転させている。
☆自分物語の中に時空を開放したのである。
☆その自分物語の中に開放した時空場を
☆J.J.ルソーは自然状態と呼んだ。
☆もちろん本書ではそこまで語っていない。
☆この自然状態の新しいとらえ方の可能性は
☆独断と偏見である。
☆しかし、孤独な散歩者であるルソーの新しいとらえ方を
☆ぼっちの概念が示唆していると考えるのは私だけだろうか。
☆オールタナティブモダニズムはいまだにマイナーである。
☆ぼっちに導かれて成長物語の脱構築は可能かもしれない。