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流出雑記 

2010/1/2

2010年01月02日 | Weblog
窓の外から水の音が絶えず聞こえる。家の外は雪景色。
正月、福井、深夜
皆寝静まった家。昨年末から娘となった私に母が用意してくれたパジャマを着て布団の中、豆電球のオレンジを眺めながら思い出していたこと。

小さい頃、私は寝付きが悪かった。うす暗い部屋で目を開けていると見える砂嵐のようなざらざらした視界、この粒はなんだろうとぼんやり思っていることがよくあった。
時々、そのまま視界が後頭部の方へ、さーっと引いて行って、宇宙からの地球が見えた。
私はそこに住んでいるということは本やテレビで見て知っている。この丸い星の上、ものすごい数の人間の中に私がいる。
でも次にいつも呪文のような言葉が浮かんでくる、今ってなに私ってなに。
そのとき私はもしかしたら本の中の登場人物、もしくは誰かに操られており、起こることはもう全て決まっているのかも知れないと思った。でもそれは父や母に聞いてもわからないことはなんとなく知っている。
今ってなに私ってなに。一瞬視界が真空のように白くなる。そのとき隣で寝ている妹、父、母のことも居なくなり、私だけになる。このときの投げ出された感覚はお化けや幽霊が怖いのとは異質な恐怖、私が今ここにあることをどうすればいい?という底無しの問いに射止められたような数十秒間。それはあっと思うとシャットダウンされて薄暗い部屋と砂嵐の視界に戻る。この先を考えると気が狂ってしまうのだと思った。
このことを母に説明しようと試みたが、幼稚園児の言葉ではどうにもうまく言えなかった。
この真空感覚は故意にやろうと思ってもうまくいかないことが多く、どちらかというとぼーっとしていると訪れた。
小学校高学年の頃、友達の家のガレージでバドミントンをしているとき急に訪れたのが最後だった。このときも友達に説明しようとしたがやはりうまく行かなかった

大人になってからもう一度、半分夢の中にいる時に試したことがあった。
そのときは白い空間が割れて上下左右の分からない真っ暗な所を飛んでいた。飛んでいると分かるのは風をきっているからで、体温と同じくらいの生ぬるい無臭の風だった。

今思えばあの真空感覚、底なしの問いは、今の私を形成する核となっているのだろう。それはどうあっても孤独であるということと同意だ。
ただ生まれて死んでいく私の問題である。親兄弟、友人、恋人、伴侶がいようと関係のないことで、例えば独り身でいるということが孤独なのではない。孤独なんて言うまでもなく、主義として孤独をいうのはくだらない。
底なしの問いに答えを求める欲望、その手探りの手つきで他者に触れ、そのことで私の形を自覚する。今ってなに私ってなに、はその関係の中に常に見いだし続ける方法以外私には思いつかない。
体を伴っているからそれが可能であるが、体がある為に生じる、触れるものがないときの寂しさ、身の置きどころのなさ、誤魔化しのきかない感覚というのを同時に誰でも持っている。
無数の人間の中に自分にとって特別な人を見つければ当然相手も体を伴っている。病むこともあれば確実に老いていく体を。若ければそのことの厄介さから幾分無責任でいられる時期もある。しかし人は苦しむのも泣くのも、いてもたってもいられなくなるのも体である。想念で相手を想うことは結局自分の為に過ぎない。
だから自他ともに体を引き受けること。書くのは簡単だが、これは一生掛かりの課題。
単に表面的なイメージを搾取するのではなく、体の芯から神話(フィクション)を作り上げること、底なしの問いにずっと向かい続けること。鋳型のない未来に体ごと。