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流出雑記 

2016/4/9

2016年04月09日 | Weblog
仕事で神戸まで出てきたのでファッション美術館でBOROの美学展を見た。

まず入り口付近にあった襤褸を着せた子供のマネキンの髪をボサボサにして顔に汚しをかけているのはもう布地そのものよりその様相から別のイメージばかりが押し出されてきて、目の前のディテールが何も見えないので止せばいいのにと思った。

展示はデザイナーによるこれまでのコレクション制作過程で出た端切れをつなぎ合わせて新たに仕立てた服、布以外のものフローリング材の切れ端で作ったカバン、シートベルトで作ったカバンなど。福祉施設で縫うをテーマに制作されたプロジェクトの作品など。そして大正、昭和20~30年代青森で実際着られていた襤褸もたくさん展示されている。
藍で染まった麻布の折り重なったつぎはぎ。肌の当たる襟元や手でよく触る胸前は擦り切れていたりする。
寄せ集め、継いでつないで過酷な環境を生き延びてきた人の執念と、生まれ落ちた境遇を生きざるを得ない諦念が重なり合って縫い込まれているようだった。服というよりとにかく衣食住のひとつの、衣、であること。体を覆うものであるのに、まるですべてがさらけ出されて見える。それは寒冷地で綿花が育たない事情から麻布が主でそれを藍で染める、素材に土地柄が反映され、更に継ぎ目の跡に含まれる、余分にはない、ということが表明されたその衣服の生いたちが着る体の手によるものであるためか。
ただその貧しさというのは決して単なる貧相なものではなく、端切れが重なる厚みをもった力強さがある。これでもかと継ぎに継がれた重たそうな布団のなかで継がれてきた命なのだと思うと少し納得がいく。
きっと実際に展示されている襤褸に袖を通していた人からすれば、やめてくれと言いたいようなものなのだろうけど。

けれど寄ってみると細かなこぎん刺しの菱模様がびっしり縫い込まれていたりする。規則的に並ぶ菱形が連なって幾何学模様を描いている。
そこには密かな愉悦が見てとれる。なぜこのような手の込んだ仕事がなされたのかを考えると。
刺繍や編み物のように規則的に針を刺す単純作業をしていると我を忘れるような時間が来る。刺す人は夜なべして薄暗い部屋でこの模様をひと針ひと針刺したのだろう。その時間にはきっと、とても個人的な感覚があったに違いない。プライベートなどない時代の生活に、この作業の内にひととき籠もることは許された喜びとして受けがれた側面もあるように思う。そしてその布地は家族の誰かに身に付けられ、模様は魔除けでもあったりする。冥想と祈りのような時間の存在を痕跡から感じる。

継いだ柄の着物はどんなものも一着しかない誂えものと言え、全国どこでも同じものが買え、S M L に体の方を近寄せ、着ては捨てるサイクルにのまれて服を選んでいる現在の着ることの気軽と気楽。どちらが本質的に貧しいかと問われると即答できない。

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