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流出雑記 

2012/7/6

2012年07月07日 | Weblog

曇り時々小雨時々豪雨

昼、四条河原で高校のときの友人と待ち合わせ祇園を歩く。ふだん街に来ても八坂神社の方にあまり用がなく、久々に歩くと観光客気分になる。東大路通りにある、お釜の炊きたてご飯が食べられる店に行こうとしていたが、店の前まで来たところで改装中だと知る。

仕方ないので四条通を戻りながら歩いているときにスリムクラブとすれ違っていたらしい。私は後ろ姿しか見ていない。

行き当たりばったりでランチ1050円限定20食と張り紙のイタリア国旗のはたはたしている店に入った。ビルの4階。ドアを開けると思ったよりかしこまった雰囲気で、縦に長い店の奥に女性客が一組以外は誰もいなかったので、12時過ぎでこの様子なら限定20食もまだありそうだった。他にパスタのランチもあったが女子とランチに来てパスタは御法度。なぜなら喋りながら食べるので絶対に冷める。冷めた麺を仕方なくすするのが嫌なのだ。20食のはプレートランチだそうで、ふたりともそれにした。すると大きな笹の葉型の白いプレートにふたりぶんの料理が盛られて運ばれて来た。スープもパンも全部そこに乗っかっている。そのプレートを対角線上に置いてそれぞれ取り皿に取って食べる。メインのポークソテーが付け合わせの他のものとあまり変わらない量と存在感で、全部前菜のようだったが、バゲットがおいしくてそれをおかわりして満足する。エスプレッソを濃い、濃い、といいながら飲む。当たり前だ。砂糖を入れて中和。

それから京阪で一駅、七条で降りて三十三間堂へ行く。彼女と仏像を見たかった。高校の卒業制作で、創作コスチュームを作ったとき、彼女は仏像の衣や装飾品から着想を得たドレスを作ったことが今も印象に残っている。高校生の頃にも一度来たがその時も一緒だった。

修学旅行生の班が数組と観光客がちらほらいるくらいで混んではいない。

前に来た時は、整然と並ぶ観音さまの圧倒的数に気を取られ、ほとんど印象になかった手前に並ぶ観音二十八部衆の方をしっかり見た。インド起源の神さまが多く、目には水晶がはめ込まれている。手を真似る。

端まで来て横からがいちばん真近で見られることに気付き、40本の手がどうやって付いているのかがわかった。観音さまは皆違う表情だが、台座の蓮のデザインも少しずつ違う。

それから三十三間堂の向かいにある養源院にも行ってみた。三十三間堂に血天井があるのだと思い込んでいたが、係の人に尋ねるとそうでなく向かいだった。

歩いて行くと「血天井」と書いた札が立っている。人はほとんどいないので静か。門から本堂への石畳の道は新緑。もみじの葉がさわさわ音を立てている。こういう音久々に聞いたと大阪の繁華街に住む友人。

中に入ると案内され、解説テープを流してくれる。杉戸に描かれた俵屋宗達のおもしろ象その他。これは血天井の供養のために描かれたそう。部屋のいくつかは伏見城にあった部屋を移築しているそうで、ここで秀吉と家臣が話したりしていた、といわれ、おお…ここで…と少し心拍数を上げてしまう。石川五右衛門がここで捕らえられたという宝物を置いていた部屋も移築されていた。石川五右衛門と聞くと、三条河原で釜茹でにされ、熱湯のなか一緒に投げ込まれた自分の子供を絶命するまで頭上に掲げていたというエピソードを思い出してしまう。そして語られることのない、自分を持ち上げていた父が死んだあと茹だるしかなかった子供のこと、晒されて一緒に茹だっていく親子の顔を見ていた人が大勢いて、その声を聞いただろうことを想像する。何度も何気なく通っている三条河原で。

そして血天井。伏見城の戦いで、最後に自刃した300人あまりの血痕の残る廊下の板を供養のために天井板にしたものだが、京都には数カ所あり、鷹峯の源光庵で一度見たことがある。血と油の後は拭いても削ってもとれなかったそうで(遺体がすぐに埋葬されないまま放置されていたためらしい)今も体の部分の跡だとわかるものが残っている。それにしても天井板にしようという発想がどこから湧いてきたのだろうか。それほど惨たらしく、何事もなかったかのように燃してしまっては浮かばれないということだろうか。

住むと夜ひとりでトイレに行くのが困難だと思う。

それから水族館にも行こうかと話していたが、その予定は次回にして甘味処であんみつ食べた。