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流出雑記 

意味がわからん言葉で意思の疎通を計りたい

2011年05月26日 | Weblog
5月22日 

この日のインプロセッション参加者は8人。
そのうちミュージシャンがひとり、踊り兼ギターを弾く人がひとり、あとはダンサー。

このところ言葉と体の関係について考えるところが多い。
言葉をしゃべるとき、声は意味と方向を持つ。何かしらの事柄を言葉にして梱包するとき、そこには誰かに届けたいという意思の働きがある。そういうとき、それを実行する体の状態は、相手に届ける為の適切なボリュームとニュアンスの声を発するよう瞬時にチューニングされる。
役者が台詞をしゃべるとき、日常会話でも人は自然にそのようにやっている。意図的にずらすことも含めて。

踊る体が発話するときは、そこから少し脱臼したような状態になるのではないかと思う。
言葉が介入することによって導き出される状態。その音との関わり、リズム、意味の負荷。そういうもので体を動かす。声は体を振動させて発する音だがその音の出口はひとつしかない。明確な方向性を持つ。発話するときに体にできる正面をなくすように発語できないだろうか。言葉を発しながら同時にそれを喰らって体自体が言葉になるような。観念的な言い方だが。
でもそれでいてダイアローグが成立する状態。意味のやりとりだけでない言葉の交信をしたい。

意味がわからん言葉で意思の疎通を計りたい と歌ったのはZAZEN BOYS

まだ埋もれたままの、体に埋まっている踊りの回路を掘り起こすこと。また、他者によって引きずり出されること。踊るという事を狭義に捉えず、かといって何でもアリの脆弱さに陥らないように。体であることを忘れないよう、その約束を一カ所引き寄せておくこと。だから今日も丹田を耕すのだ。

私の体って何か、私とは何か。そのとき舞踏が踊られる。
踊ることを知って間もなかった頃、ある舞踏家に舞踏とは何かと聞いたときの回答。

別に言い方は舞踏でなくてもいい。
ただ、「私の踊り」は他者と共に探し続けるものであり、そうしなければ私というものの在ることのほんとうの意味での豊かさを引き出す事は出来ないように思う。