ゴールデンウィークは東京から兄とその恋人が泊まりに来ていた。奈良に行き鹿、阿修羅、大仏を見、嵐山に行きトロッコ列車に乗るなど、京都に住んでいる者にとっては近すぎるが故に行きそびれている観光地へ赴く5日間だった。
最終日の夜、なんだかカラオケに行くことになった。沖縄出身の兄の彼女は沖縄の歌手の歌をいろいろ唄ってくれた。澄んだ声で歌がうまい。彼女の選曲なのか実際そういう歌が多いのか、前向きな内容の歌詞、海や空や花、親や家族を想う歌が多い。同じ国土であっても陸続きでないところに故郷があるということは、なんとなくそこへ馳せる思いも少し質が違うように感じる。人にもよるだろうが、彼女に関しては生まれ育った土地への愛着というより愛情が伝わってくるなと思っていた。
ふたりが東京に帰った翌日、福井の父が岡崎の武道センターで剣道の試合。父は剣道の先生で夫の実家には道場がある。高校まで夫も剣道をやっていて、実は剣道一家の息子なのだった。
私の母も見に来た。試合は3分で引き分けでも延長戦はなし。それも打ち合うのでなくほんとうに一本打つか打たないかというくらいの戦い。相手の状態と自分の状態、呼吸と間合い、打つべき一瞬というのを見計らって、その一瞬に体を連動させる。見慣れない者にとってはどちらが一本とったのかわからないくらい動きが早い。
試合のあと4人で聖護院の河道屋に行って蕎麦を食べる。父はビールをおいしそうに飲み、いいとこ見せれんかったナーと笑っていた。父の試合は引き分けだった。
父は他の試合を見に戻り、母と夫と高島屋に陶工 河井寛次郎展を見に行った。
晩年まで変化し続ける作品を見ながら、なぜそのように変容し続けていったか、残された言葉を読むとどのような思いで物を作り続けていたのかよくわかる。
私は木の中にいる石の中にいる 鉄や真鍮の中にもいる
人の中にもいる
一度も見た事のない私が沢山いる
終始こんな私は出してくれとせがむ
私はそれを掘り出したい 出してやりたい
私は自分で作ろうが人が作ろうがそんな事はどうでもよい
新しかろうが古かろうが西で出来たものでも東で出来たものでも
そんなことはどうでもよい
すきなものの中には必ず私はいる
私は習慣から身をねじる まだ見ぬ私が見たいから
*
こんなところに自分がいたのかと ものを見つめる
*
身体の中に無数にいるまだ見ぬ形のいる身体
*
呼べばいつでも起きてくる者がからだの中に寝ている人間
まるで舞踏家のようだ。この人は土に触りながらずっと旅をしていたのだと思う。ろくろの前に座っていても、体を伴った旅をしている。時間をかけ、積み重ねないと達する事の出来ないところへ真摯に向かう人の痕跡を見ることは、自分はどのように歩いてくべきか、検証する機会でもある。やはり日々の暮らしも仕事もひとつの信条の上に貫かれた生き方に強く惹かれる。美しいと感じる人の生き方というものに。
そのあと月ヶ瀬で念願のあんみつを食べ、阪急百貨店あとのマルイを見てまわり母とわかれた。
寺町辺りをふたりでぶらぶら歩いて夫は上着を1着、私はスニーカーを1足買った。どちらもぴたっとくる感じがあった。
物かって帰る私買って帰る これも河井寛次郎。
安い物でも高い物でも買い物がこうであればいい。
最終日の夜、なんだかカラオケに行くことになった。沖縄出身の兄の彼女は沖縄の歌手の歌をいろいろ唄ってくれた。澄んだ声で歌がうまい。彼女の選曲なのか実際そういう歌が多いのか、前向きな内容の歌詞、海や空や花、親や家族を想う歌が多い。同じ国土であっても陸続きでないところに故郷があるということは、なんとなくそこへ馳せる思いも少し質が違うように感じる。人にもよるだろうが、彼女に関しては生まれ育った土地への愛着というより愛情が伝わってくるなと思っていた。
ふたりが東京に帰った翌日、福井の父が岡崎の武道センターで剣道の試合。父は剣道の先生で夫の実家には道場がある。高校まで夫も剣道をやっていて、実は剣道一家の息子なのだった。
私の母も見に来た。試合は3分で引き分けでも延長戦はなし。それも打ち合うのでなくほんとうに一本打つか打たないかというくらいの戦い。相手の状態と自分の状態、呼吸と間合い、打つべき一瞬というのを見計らって、その一瞬に体を連動させる。見慣れない者にとってはどちらが一本とったのかわからないくらい動きが早い。
試合のあと4人で聖護院の河道屋に行って蕎麦を食べる。父はビールをおいしそうに飲み、いいとこ見せれんかったナーと笑っていた。父の試合は引き分けだった。
父は他の試合を見に戻り、母と夫と高島屋に陶工 河井寛次郎展を見に行った。
晩年まで変化し続ける作品を見ながら、なぜそのように変容し続けていったか、残された言葉を読むとどのような思いで物を作り続けていたのかよくわかる。
私は木の中にいる石の中にいる 鉄や真鍮の中にもいる
人の中にもいる
一度も見た事のない私が沢山いる
終始こんな私は出してくれとせがむ
私はそれを掘り出したい 出してやりたい
私は自分で作ろうが人が作ろうがそんな事はどうでもよい
新しかろうが古かろうが西で出来たものでも東で出来たものでも
そんなことはどうでもよい
すきなものの中には必ず私はいる
私は習慣から身をねじる まだ見ぬ私が見たいから
*
こんなところに自分がいたのかと ものを見つめる
*
身体の中に無数にいるまだ見ぬ形のいる身体
*
呼べばいつでも起きてくる者がからだの中に寝ている人間
まるで舞踏家のようだ。この人は土に触りながらずっと旅をしていたのだと思う。ろくろの前に座っていても、体を伴った旅をしている。時間をかけ、積み重ねないと達する事の出来ないところへ真摯に向かう人の痕跡を見ることは、自分はどのように歩いてくべきか、検証する機会でもある。やはり日々の暮らしも仕事もひとつの信条の上に貫かれた生き方に強く惹かれる。美しいと感じる人の生き方というものに。
そのあと月ヶ瀬で念願のあんみつを食べ、阪急百貨店あとのマルイを見てまわり母とわかれた。
寺町辺りをふたりでぶらぶら歩いて夫は上着を1着、私はスニーカーを1足買った。どちらもぴたっとくる感じがあった。
物かって帰る私買って帰る これも河井寛次郎。
安い物でも高い物でも買い物がこうであればいい。