もみじ葉の 未だ浅きも 蕗香り
梅士 Baishi
今日は定休日だったが、山下りの足に膏薬を貼って山
歩きはお預けとなった。
それにしても、いい天気だったのに、惜しいことだっ
た。
体が自由に動くということは幸せなことである。
水泳に夢中になっていたこともある。
講師時代は、さまざまなスポーツを学生と楽しんだ。
バスケット、バレー、卓球、バトミントン、テニス、
釣り・・・。
今は滅多に水泳には行かなくなったが、山歩きが楽し
くして仕方がない。
写真の趣味にも俳句の趣味にも、山歩きは四季の宝庫
である。
この世のものではあっても、美しさには創世の意識や、
霊的世界の清らかさが感じられる。
山の魅力もそこにあるのだろう。
民主主義とは何か。
もちろん、政治的意思決定の仕組みに関する思想で
ある。
歴史的には専制君主制に対する規制原理として持ち
込まれた議会制による修正のことである。
しかし、専制君主制のなにが忌避されたのか。
おそらくは、君主の凡庸や暴力と、封建的身分制が
嫌われたのだ。
では、議会制によって凡君や暴君はなくなったのか
というと、そうではない。
ヒトラーもスターリンも、民意によって選出された
のだ。
また、凡君こそは日常的な民主主義の生産物である。
そうした好ましくない議会君主が出ても、選挙で変更
することができるというが、次の凡君が出てくるのが通
常である。
そもそも議会とはブレーキであって、賢明なのではな
い。
結局は、衆愚政から逃れることは難しい。
身分制の束縛から解放したということが、最大の民主
主義の歴史的成果ではあったろう。
しかし、二世議員の寡占化傾向にもみられるように、
事実上の身分制は、既得権益の世襲化を通して残って
いる。
ある意味、身分制の合理性があるともいえるのである。
すなわち、民主主義という言葉では、民主ということ
が語れないということである。
目的論として、国家は国民のために、国民は国家のた
めにという双方向性が求められるであろう。
公務員でありながら、反日左翼活動の自由が保障され
るなど、本末転倒である。
目的論だけでも偽ブランドになりかねない。
問題は、方法論である。
国家は国民のために、国民は国家のためにということ
がどう担保されるかという問題がある。
マスコミのモラルが失われている現代にあって、民主
主義の方法としての代表選挙自体が非民主的マスコミに
よる、独裁政治の支配手段となっている現実がある。
しかし、これを統制する権力がないというところに最
大の悩みがある。
言論責任が国会で追及される仕組み、独占禁止法の適
用などが検討されるべきである。
凡庸にならざるを得ない現代の君主事情を考えると、
少なくとも選挙前3ヶ月間の選挙報道の禁止は必要だ
ろう。
その間はマスコミ以外の作成名義を明らかにした国
民的議論と、政府による広報によるべきである。
賢人が選出されないようであれば、選挙は民主的手
段とは言えないであろう。
最後は革命という担保が機能しなければならない。
そのためにも、軍隊の公正公平と愛国心が求められ
るし、国民の気概が求められる。
そろそろ、革命組織の結成が準備されなければなら
ないのではないか。
本来、革命組織としての責務が政党に求められたは
ずである。
ところが、現代の日本の野党は、反日左翼である。
愚かである。
本来の野党は、愛国心に基づく革命組織となりうる
ものでなければならない。
幸福実現党の流れを汲みつつも、戦闘をも厭わない
革命組織政党の立党が必要なのではないか。
もしかして、私もレプタリアンなのか・・・。
日本独立宣言・九州本部・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・中村梅士党