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+ 蕗香る秋・・・ 運動のよろこび、山の魅力  民主主義の非民主主義  政党本質論

2015年11月07日 19時51分15秒 | ◆ 日本国独立運動


 

 

   

 もみじ葉の  未だ浅きも  蕗香り 

   梅士 Baishi

 

  

 

 

 

 今日は定休日だったが、山下りの足に膏薬を貼って

歩きはお預けとなった。

 それにしても、いい天気だったのに、惜しいことだっ

た。

 体が自由に動くということは幸せなことである。


 水泳に夢中になっていたこともある。

 講師時代は、さまざまなスポーツを学生と楽しんだ。

 バスケット、バレー、卓球、バトミントン、テニス、

り・・・。


 今は滅多に水泳には行かなくなったが、山歩きが楽

して仕方がない。

 写真の趣味にも俳句の趣味にも、山歩きは四季の宝庫

である。

  この世のものではあっても、美しさには創世の意識や、

霊的世界の清らかさが感じられる。

 山の魅力もそこにあるのだろう。 

 




 民主主義とは何か。

 もちろん、政治的意思決定の仕組みに関する思想で

る。

 歴史的には専制君主制に対する規制原理として持ち

れた議会制による修正のことである。


 しかし、専制君主制のなにが忌避されたのか。

 おそらくは、君主の凡庸や暴力と、封建的身分制が

われたのだ。

 では、議会制によって凡君や暴君はなくなったのか

うと、そうではない。

 ヒトラーもスターリンも、民意によって選出された

だ。

 また、凡君こそは日常的な民主主義の生産物である。


 そうした好ましくない議会君主が出ても、選挙で変更

ることができるというが、次の凡君が出てくるのが通

である。

 そもそも議会とはブレーキであって、賢明なのではな

い。

 結局は、衆愚政から逃れることは難しい。


 身分制の束縛から解放したということが、最大の民主

の歴史的成果ではあったろう。

 しかし、二世議員の寡占化傾向にもみられるように、

上の身分制は、既得権益の世襲化を通して残って

いる。

 ある意味、身分制の合理性があるともいえるのである。


 すなわち、民主主義という言葉では、民主ということ

ないということである。

 目的論として、国家は国民のために、国民は国家のた

という双方向性が求められるであろう。

 公務員でありながら、反日左翼活動の自由が保障され

ど、本末転倒である。


 目的論だけでも偽ブランドになりかねない。

 問題は、方法論である。

 国家は国民のために、国民は国家のためにということ

う担保されるかという問題がある。


 マスコミのモラルが失われている現代にあって、民主

の方法としての代表選挙自体が非民主的マスコミ

る、独裁政治の支配手段となっている現実がある。

 しかし、これを統制する権力がないというところに最

みがある。

 言論責任が国会で追及される仕組み、独占禁止法

などが検討されるべきである。


 凡庸にならざるを得ない現代の君主事情を考えると、

くとも選挙前3ヶ月間の選挙報道の禁止は必要だ

ろう。

 その間はマスコミ以外の作成名義を明らかにした国

民的論と、政府による広報によるべきである。

 賢人が選出されないようであれば、選挙は民主的手

段と言えないであろう。


 最後は革命という担保が機能しなければならない。

 そのためにも、軍隊の公正公平と愛国心が求められ

し、国民の気概が求められる。

 そろそろ、革命組織の結成が準備されなければなら

いのではないか。


 本来、革命組織としての責務が政党に求められたは

ある。

 ところが、現代の日本の野党は、反日左翼である。

 愚かである。

 本来の野党は、愛国心に基づく革命組織となりうる

なければならない。


  幸福実現党の流れを汲みつつも、戦闘をも厭わない

革命組織政党の立党が必要なのではないか。

 もしかして、私もレプタリアンなのか・・・。


 

日本独立宣言・九州本部・神聖九州やまとの国

  幸福実現党応援隊・中村梅士党  

          

 

 

 

 

 

  

  

 

 

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+ 銀杏一木の秋 ・・・ 「ゆとり教育」の換骨奪胎・「生涯学習論」批判  

2015年11月07日 18時05分37秒 | ◆ 日本国独立運動


 

 

   

 一木に  ひと秋抱え  色づきぬ   

   梅士 Baishi

 

  

 

 

 

 竈神社にも大きな銀杏の木があった。

 銀杏は古代の植物であるから、なりが大きい。

 威風堂々と枝を張って、一秋分の黄葉を湛えて立っている。

 紅葉よりも一足先に秋色に染まっている。


 土曜の授業は休講にしたが、講義準備が山積している。

 左翼偏向教育の大学授業を解説しなければならない。

 その準備は、実に公憤を覚えつつする反論である。

 今回は、「生涯学習論批判」である。



 



1. 生涯学習の意味解釈 

 人生は学習のプロセスである。生涯を通して学習することは人間

として当然のことである。ましてや、今日の知的社会の高度化に対

応するためには、学校教育だけでは足りず、職業人としても研鑽を

積まなければならない。

  しかし、教育の必要性、学習の必要性を主張するのが「生涯学習

論」なのではない。生涯を通じた教育学習が必要だと言うことが、即

ち、「生涯学習論」を正当化するものではない。その意図はどこにあ

るのかを注意深く探る必要があるといえる。


2. 生涯学習論の背景にある「ゆとり教育」の失敗

  日本において、生涯学習論が強調されるようになったのは、学校

教育を劣化させたとして批判された「ゆとり教育」の失敗以後のこと

である。受験戦争といわれるほどの熾烈な受験競争に牽引された

学校教育に対する批判から、学外実習を含めた社会教育を取り入

れ、「のんびり学ぼう」ということを、「人間性を豊かにする教育」とし

て導入したのだった。


  しかし、子どもたちは学校での勉強負担が減ったが知的実力は

大幅に低下し、国際的序列もトップレベルから大きく転げ落ちる結

果となった。

 だからといって、受験競争の必要性が失われたわけではなく、

大学の序列は生涯の知的ブランドとして通用することに代わりは

ない。そのために、子どもたちは受験勉強のためには塾通いを

余儀なくされて、いっそうゆとりを失った。学校は勉学の場として

の価値を劣化させ、いじめや授業放棄など、学校崩壊現象を引

き起こした。ゆとり教育は学校崩壊を引き起こしたのである。


3. 「ゆとり教育」のリニューアルとしての「生涯学習論」

 その批判をかわすために、ゆとり教育という名称を捨て、「生涯

学習」としてリニューアルされたという事情がある。そこに、学校教

育に与えた影響の本質的問題がある。学習指導要領は「生きる力」

というゆとり教育路線を継承しつつ、授業時間の回復、教科書の

充実などの改善を図りつつある。賛否両論あるが、受験勉強を否

定することはできないし、受験勉強の塾依存では、子どもたちも、

経済負担の重い親たちに対しても無責任に過ぎるからである。


 それにも拘らず、生涯学習論が主張されるのはなぜか。その真

なる狙いはどこにあるのか、不可解である。

 そもそも、「ゆとり」とは、競争消極主義というべきものである。格差

をいけないもという価値観がある。すなわち、これが「ゆとり教育」の

社会主義的傾向性なのではないか。


 しかし、自由とは競争による努力と発展を意味するものである。

競争からの解放は、日本の国際的競争力に危険信号を点したこと

からも分かる。勉強させるのはかわいそうだでは済まないのである。

悪魔は修行者に対して、もう少し楽になれと囁く。「悪魔の道は善

意で舗装される」とも言う。警戒を要する。


 それにもかかわらず、「ゆとり教育」は間違ってはいなかったとす

る「生涯学習論」のこだわりは何なのかが問われなければならない。


 結局、「生涯学習論」とは、学校教育の「ゆとり教育」批判をかわし

つつ、教育の社会主義化をめざすものなのではないか。すなわち、

自由競争社会による知的格差を嫌悪し、結果平等主義による教育

の平準化をめざすものである。多くのゆとり教育論者が、生涯学習

論に鞍替えしていることからも推察される事情である。


 生涯学習論のもう一つの狙いは、社会主義教育の機会を生涯に

わたって広げ、「市民団体」という名の社会主義組織(細胞)を増産

すると言う狙いがあるのではないか。左翼活動団体としての「市民

団体」の維持育成を「生涯学習」の名の下に正当化し、公的資金や

施設を使って推し進めようと言う狙いである。


 方法論としては、学校教育の社会主義的解放、学習する権利の

社会権的構成による公的予算、施設解放の獲得が中心的である。

星槎大学などは、こうした社会主義思想による生涯学習センターを

目指しているとも考えられる。


 しかし、こうした換骨奪胎的な議論は問題である。思うに、生涯を

通して学習する機会は学問の自由ないし学習の自由として論じら

れるべきで、教育ビジネスや自主的な学習団体活動によって行わ

れるのが原則である。学校の開放などと、子どもや青年の教育機

会である学校教育の社会的解放を主張するのは妥当ではない。


 もっとも、社会人の学習機会をサポートする政策は大事である。

たとえば、自習センターとしての図書館の増設ないし資金補助で

対応することが望ましい。

 この点、現代の図書館のあり方は見直されるべきである。


 しかし、生涯を通じて探求すべき学習を社会権として論ずるべ

きではない。国家に指導してもらう必要もないし、左翼教育の路線

に乗るべきでもない。

 但し、過密で萎縮した住宅事情を考えると、自習できる環境は欲

しいし、国家的にも経済成長につながる政策である。

 これは生涯学習論ではなく、知的インフラ整備事業と考えれば

十分であろう。


 但し、役に立たない大学教員の指導などは無用に願いたい。

 むしろ、経営者や企業人材の公開セミナーは是非、というところ

であろう。

 大学教育もまた、ゆとり教育に過ぎているのである。


  本来の生涯にわたって必要な教育とは、国家的視点からみる

学習指導ではなく、宗教教育である。

 宗教こそは生涯にわたって求められる道標を示すものだから

である。


 教育に携わるものは、謙虚に宗教に学ぶべきである。

 ましてや、時代が求めている世界的宗教が日本に現れている。

 幸福の科学に学ぶことこそは、最高位の生涯学習の糧を得る

チャンスとなるであろう。


 

日本独立宣言・九州本部・神聖九州やまとの国

  幸福実現党応援隊・中村梅士党  

          

 

 

 

 

 

  

  

 

 

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