坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

西本願寺の仏前結婚式

2008年12月16日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 12月16日

 外食  焼き飯ラーメン      930円
 雑費  ウエットティッシュ    198円
     居酒屋         2500円
     タクシー         740円
     クウゲ         1700円

 合計              6068円
 12月累計          61675円

 学習会。
 なんだが、体が重いぞ。。。体が重いので電車を2本乗り遅れる。
 若頭の発表だったので遅れるのはイヤだったのだが、「しんどい」が勝つ。若頭、しんどいに負ける。
 
 ん?
 
 まあ、学習会後に、居酒屋→タンガクラブ→クウゲと飲み。
 
 タンガクラブで旧知の神主さんに会う。
 久しぶりだったのでクウゲで諸々話を聞く。
 
 さすがは三三九度のプロである。
 西本願寺の仏前結婚式では三三九度はしない、という情報を貰う。

 http://monbou.jp/html/kekkon.html

 見え難いが、式次第に三三九度(式杯)は入っていない。

ホームレス(無所帰孤独)

2008年12月15日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 12月15日

 食類  ペット水小12        600円
     無添加ワイン         398円
     諸々             499円
 
 合計                1497円
 12月累計            55607円

 大変である。
 まきちゃんが、宇都宮まきちゃんが本を出すらしい。

 http://utsunomiyamaki.laff.jp/blog/2008/12/post-1e8b.html

 え~。。。12月20日って、いつや。あ、20日か。なんかよう解らんようになって来たけど、まきちゃんが本を出す事だけは確からしい。
 16時から難波のジュンク堂で発売記念イベントもあるらしい。
 おぉぉぉぉ。。。行きたいぞ。。。無茶苦茶行きたいぞ。。。40のオッさんが行ったら変態扱いされるかも知らんが、それも名前は忘れたが多分『五怖畏』っちゅう凡夫の怖れのうちのなんかやろうけど、え~。。。まきちゃんと握手。。。サインも貰えるかも知らん。オッちゃんは、オッちゃんは、どうしたらエエねん。
 
 1 やはりここはクールにアマゾンでネット注文して買う。
 2 本屋で小難しそうな本と一緒に買う。

 エロ本、ちゃう、っちゅうねん。
 しかし、それでも宇都宮まきちゃんの本である。
 あのまきちゃんが本を出したのだ!!!

 あ、そういや、先輩の川浪剛さんも共著ですが本を出しました。
 http://www.atworx.co.jp/works/pub/47.html
 先日、『著者割引』とかなんかで1300円で買いました。

 この川浪さんは知っている人は知っているし、知らない人は全く知らない(当り前か)人だが、恐らく全国で唯一の「坊さんになった後にホームレスになった人」である。今は違うが。
 ちなみに、別に気取ってホームレスになったわけではない。
 「私も仏道修行の為にホームレス生活をしなければ」
 等と云う鬼畜ではない。
 頭は無茶苦茶エエのだが、生き方が下手なんだろう。別名『プライドが高い』とも云うが。

 ホームレスを仏教では『無所帰孤独』というのかも知れない。

【ですから地獄のことを「我今無所帰孤独」と、この一言で表します。私は今帰るところがなくて孤独だと。これが地獄なんです。無間地獄という地獄でも一番苦しみの極まる地獄、そういう無間地獄を表すときに、「私は今帰るところがなく孤独だ」と言います。その帰るところというのは、私を待って、迎えてくれる者のいるところなんです。】
 (竹中智秀先生 http://homepage.mac.com/hon1/sukanen/honkojinote/note7/note72.htmより)

 川浪さんは中学校時代に学校をサボって(不登校)釜ヶ崎で働いていた。
 その時に本には書いてないが、確か同じテーブルでメシを喰っているオッさんから

【「兄ちゃん。あんたみたいな若い歳からこんなとこ来てたら、将来ぜったい出世でけへんでぇ~」】(川浪剛共著『貧魂社会ニッポンへ』222ページより)

 と、云われたらしい。

【よい子じゃなくてはいけない、そういうことがずっと自分を押し進める役割を果たしていたように思うんです。それは一見、努力の仕方によっては社会のみんなから受け入れられるタイプを作り上げていく。そういう中で、逆に自分の中を覗いてみたら、もの凄くある種の脅迫観念があり、「こんなところから早く抜け出したい」という人の目を気にする自分がいた。よい子を目指す人というのは、多分、人の目を気にしているんですよね。人からどう思われるか、そこから解放されたかった。けれども、いくら祈っても、いくらミサに真剣に参加しても、瞑想会で真剣に自分自身を見つめ直しても何も変わらなかった。】(本田哲郎共著『貧魂社会ニッポンへ』176ページより)

【野宿している人を差別的に見て、何かされるとばっかり思っていたら、たった一言、「やあ、にいちゃん、すまんな、おおきに」という言葉で、私を受け入れてくれたのです。】(本田哲郎『1996年度さけび』30ページより)

【ここで、本願に遇うたと。みんな浄土を故郷とする御同朋ではないか。さあ苦労を一緒にして行こうと、最後の最後まで苦労を一緒にしていけるということができるということが、本願に遇うた、助けられたということの喜びです。苦労が一緒に出来るということが、助かったということなんです。
 ここに非常に深い、私たちが生きるということの喜びがあるんです。苦労が嫌だというのではなしに、一緒に苦労が出来るということが喜びだと。そこに助けられていく念仏の教えがあるのです。】
 (竹中智秀先生 http://homepage.mac.com/hon1/sukanen/honkojinote/note7/note72.htmより)

 つい、カテゴリーを『南無阿弥陀仏の結婚式』にしてしまった。。。

漬け物

2008年12月13日 | 坊主の家計簿
 12月13日

 雑費  うどん       210円
     レモンティー    120円
 食類  諸々        911円

 合計           1241円
 12月累計       54110円

 久しぶりに漬け物を作る。
 数日前に買って来た白菜を食べずに放ったらかしにしてて、量を考えると「え~。。。漬け物にしよ」と。
 云うても、まあ、塩揉みの浅漬けなんだが、昆布ダシの素と、韓国唐辛子で味付け。

 作り過ぎた。。。
 まあ、パスタにも使えるし、何じゃかんじゃで食べよ、っと。

そのまま帰れば。。。

2008年12月12日 | 坊主の家計簿
 12月12日

 外食  イカ天熱ぶっかけ大    510円
     ラーメン         650円
 食類  焼そばマン        100円
     おにぎり         100円
 雑費  薬局諸々        2674円
     ウイスキー       1900円
     タンガクラブビール2  1000円
     プカプカ         900円
     HOBO         2000円くらい?
     カプセルホテル     2500円

 合計             12334円
 12月累計          52869円

 ちょい用でタンガクラブへ。
 そのまま帰ればエエのだが、「トイレ、トイレ」とプカプカへ。
 そのまま帰ればエエのだが、「細川君は元気かな?」とHOBOへ。
 そのまま帰ればエエのだが、あ、ちゃうわ。「このまま帰れば間違いなく終着駅まで行ってしまう」と、云う事でカプセルホテルに避難する。

こたつ虫

2008年12月11日 | 坊主の家計簿
 12月11日

 雑費  缶ミルクティー      120円
 外食  味噌タンメン       514円

 合計               634円
 12月累計          40535円

 夕方からこたつ虫になってたら、そのまま朝まで爆睡。

不景気

2008年12月10日 | 坊主の家計簿
 12月10日

 食類  諸々           504円
 雑費  缶ミルクティー      120円
     薬局           612円
     喫茶店          320円
     居酒屋         3915円

 合計              5471円
 12月累計          39901円

 所用で外出。
 
 え~。。。12月である。忘年会シーズンだと思うし、飲む機会大の時期である。飲み屋にとって稼ぎ時である、はずである。
 しかも、公務員のボーナスが出た日でもあるらしい。
 んが、お気に入りの安くて美味くてエエ感じで、基本混んでいる居酒屋が何時もと変わらん。「入れるかな?」と思たんやけど、何時もと変わらん。
 
 え~。。。不景気やのぉ。。。

2008年12月09日 | 坊主の家計簿
 12月9日

 食類  諸々        1483円
 外食  回転寿司       472円

 合計            1955円
 12月累計        34430円

 新生児名前ランキングで女の子の1位が『葵』になったらしい。
 背景には宮崎あおいちゃん人気があるらしい。
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081208-00000028-mai-soci

 「ねえ、お母さん。私の『葵』っていう名前はどうして付けたの?」
 「あなたが産まれた頃に人気のあった女優さんの名前から付けたのよ」
 「へえ~。お母さんって、流行に左右されやすいんだね。」

チベットチベット

2008年12月08日 | 坊主の家計簿
 12月8日

 外食  ラーメン2        1300円
 雑費  タバコ10        3000円
     参加費           500円
     本            1300円

 合計               6100円
 12月累計           32475円

 御近所の寺でチベット問題の法要。
 んが、夕方からの御参りがあったので途中参加。
 住職さんの話の後で、映画『チベットチベット』(http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD698/index.html)を観る。

 監督、っちゅうか、撮影した人は在日三世の人だった。
 映画の最後辺りは機材のトラブル(?)によってちゃんと観れなかったのだが、在日三世の兄ちゃんが、『在日』としての名告りをする覚悟を得た旅行記の映画でもあった。っちゅうか、主にそういう視点で見てしまった。
 チベットの人達は民族性を奪われた。それが故に「私はチベット人である」と。

 ふと、『バラバラで一緒。違いを認める世界の発見』っちゅう言葉を思い出す。
 また、藤場先生の『背理を伴う名告り』という言葉も思い出す。

 「貴様は中国人になれ!』
 『貴様は日本人になれ!』
 という強制。

 『世間ではこうするのが普通である』という強制。
 習俗の強制。
 これを一緒にすると、チベットの人達や、在日の人達にとっては失礼かも知れないが、『強制を拒否』するという部分においては同じだと思う。
 
 違うのだ。
 『習俗』と云っても統一されたものではない。真宗には真宗の習俗がある。伝統がある。
 また、ありとあらゆる事柄から強制される筋合いはない。

 強制には選びがない。選ぶ事が出来ないのだ。
 チベット人がチベット人として生きようとする事すら出来ない。
 
 違いを認められないのは偏見でしかない。ワガママの延長でしかない。
 「そこに居られる人」を認められないのはエゴでしかない。自分の偏見を押し付けているだけの話である。
 それを『エゴ』と認めるのならば、サシである。1対1の関係でしかない。しかし、そこに『正義』であるとか、『解放』とかの大義名分がつくと、1対1と云うワガママのエゴが忘却してしまう。
 
 ワガママなのだ。エゴしかないのだ。決して正義ではないのだ。所詮、私のこだわりでしかないのだ。
 そのエゴから見たら『他者』など『変な人』にしか過ぎないのだ。
 しかし、そこに生きておられるのだ。
 
 正義を前提に持つが故に「あの人たちは解っていない」「あの人たちを解放しなければならない」になる。
 ちゃう。エゴでしかない自覚ではないのか。
 中国政府ならば、中国政府が幾ら綺麗事を並べようともエゴでしかない。人間のやる事なのだ。
 「これが世間の常識です」でも同じ。んなもんは単なるエゴでしかない。エゴである以上は、60億人が集まって『これは正しい』と云おうが、エゴでしかない。60億人対1人でも、サシのエゴとエゴでしかない。
 
 生身の人間にエゴから離れる事は出来ない。エゴはエゴでしかない。

【一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。】(釈尊)

 え~。。。ベロンベロンに酔える寺なので、ベロンベロンでふ。

高砂の一蓮托生

2008年12月07日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 12月7日

 食類  諸々          1506円
 
 合計              1506円
 12月累計          26375円

 披露宴会場には『高砂』っちゅうもんがあるらしい。
 なんちゅうんですか?心労と神父、ちゃうわ、新郎と新婦が座るメインテーブルを高砂というらしい。
 気になってみたので調べる。

【高砂とは、兵庫県高砂市にある高砂の浦のことです。老松の精が相生『相(あい)ともに生まれ、生きて老いるまで』の老夫婦になって現れたという故事にならった能楽曲で、国と民の繁栄を主題とし、その一部は婚礼などの祝儀で謡われます。
また高砂とは、人生でいかなる困難があっても、人は元の姿に必ず戻っていく(つまり、めでたいところに納まる)といった意味もあります。高砂の松というのは、芽が出てからのち様々な風雪に遭って幹が曲がってしまったとしても、頭の部分は根元と同じ場にある姿のことを言います。
これらの意味から、夫婦が一生添いとげるようにという願いを込めて婚礼の席で用いられるのです。】
 (http://www.wedding-princess.net/yougo/ta/07.htmlより)

 であるらしい。
 また、

【「この松こそ、世に名高い高砂の松。この松と住吉の松は“相生の松”と言われています。私たち夫婦も、妻はこの浦の者。私は住吉の者で、遠く隔てて住んでいても、心は通い合っております。」】(http://home.catv.ne.jp/dd/seion/library-4.htmlより)

 であり、

【「昔の人の申しますには、高砂というのは、上代の『万葉集』の時代を示し、住吉とは今のこの延喜の帝の時代のことをさしています。かわらぬ緑を保つ松は、永久に尽きない和歌の道を表し、その繁栄は昔も今もかわりません。」】(http://home.catv.ne.jp/dd/seion/library-4.html

 でもあるらしい。

 ふと、

【荘厳眷属功徳成就とは、偈に「如来浄華の衆は 正覚の華よリ往生す」と言える故なり。
 これがどうして不思議であるかというと、およそ、生まれ方のさまざまなこの世界には、もしは胎生、もしは卵生、もしは湿生、もしは化生と、(眷属若干苦楽万品)その種類がいろいろ分かれている。また苦楽もさまざまである。それはいろいろな迷いの業によって生まれたからである。かの安楽浄土には、すべて阿弥陀如来の浄らかな正覚の華から化生しないものはない。(同一念仏無別道故遠通夫四海之内皆為兄弟)同じく念仏によって往生するのであって別の道がないからである。そこで、遠くあらゆる世界に通じて、念仏する者はみな兄弟となるのである。浄土の眷属は数かぎリがない。どうして思いはかることができようか。】
 (無量寿経優婆提舎願生偈註・巻下 http://www.daigo.or.jp/LAB/ronchu_2.htmより)

 を思い出す。

 仏前結婚式後の、というか、婚礼法要後の披露宴での高砂に座った辛労神父、ちゃう、新郎新婦は当然衆生である。
 『同胞』でなく『同朋』である。
 夫婦2人だけの幸福だけでなく、家族だけの幸福だけではない。
 また、先に『国と民の繁栄』(http://www.wedding-princess.net/yougo/ta/07.htmlより)とあったが、親鸞は

【朝家の御ため国民のため】(真宗聖典569ページより)

 という言葉を書いているが、『朝家』とは『おおやけのおんためともうすなり』であり、『国民』とは『くにのたみひゃくしょう』である(共に真宗聖典1081ページより)。

【しかし土下座しているうちに、和辻先生は大地の心とでもいうべきものが自分自身のなかによみがえるわけです。大地の心とは、自分は一人で今日まで生きてきて、自分一人の力で偉くなったように思っているけれども、自分自身は大衆に支えられていたのだなということです。大衆に支えられてこそ生きてきているにもかかわらず、その大衆に向って唾を吐きかけようとしていた。それが土下座してはじめてわかった。だから和辻先生は、これからはもう自分ひとりのために生きるのではない、自分を支えてくれている大衆のために生きようと決断されるのです。そのような経験を契機として、大衆というものは、実は私自身のいのちの内容だということを和辻先生は自覚されたのですね。】(竹中智秀『阿弥陀仏の国か、天皇の国か』266ページより)

 夫婦と云うサンガ。

【今後あなた方がお二人によって作られる家が、いかなるものに向っても等しく開放され、いかなるものをも歓んで迎え容れるというような、そんな広やかな、そんな温かい、そんな文字通りの「如来の家」として新しく創り出されるであろうことを、私は学院に学ばれたお二人の上に、秘かに期待しないではいられぬからなのです。】(信国淳『一蓮托生の生活』より)

ラッシュアワー

2008年12月06日 | 坊主の家計簿
 12月6日

 雑費  缶ミルクティー       120円
     回数券          3700円
     居酒屋          4749円
 外食  かけうどん         280円
     つけ麺           500円
 食類  諸々(数日前)       300円

 合計               9649円
 12月累計           24869円

 所用で外出。
 忘年会シーズンなんだろう。終電がラッシュアワーみたいだった。

悪名畏

2008年12月05日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 12月5日

 外食  メシ          496円
 薬局  諸々          976円
 雑費  2L写真用紙      398円
 
 合計             1870円
 12月累計         15220円

 結婚式は儲かる。
 これは葬儀と同じなんだろう。非日常的な事柄であり、非日常であるが故に日常の感覚を持ち込む神経が麻痺してしまうのだろう。
 普段はスーパーのチラシを見て1円でも安いものを探す人でも、冠婚葬祭ではアホになる。
 葬儀は「最後の親孝行」なんぞと云う営業トークがあるが、結婚式は『人生最大のハレの場』として様々な金を使わせる営業トークがあるのだろう。
 で、こういう事に金をケチるのは無粋になるのであろう。
 
 また、『世間様』に対する見栄もある。
 『無粋』と云うよりも、見栄なんだろう。見栄の張り合いであり、当然その見栄は『世間様』に対しての事でしかない。
 「こんな結婚式では世間様に対して。。。」なんぞと。

 自と他の競争。見栄の張り合い。プライドを満足させる為の道具の為の結婚式。
 「普通はこれぐらいのプランを皆様立てられておられますが」なんぞという営業トークも出て来るのだろう。

 披露宴での会場の広さと料金は正比例ではない。会場が狭くても見栄の張り合いならば幾らでも金は取れる。
 披露宴会場が広く、多くの参加者が来られても、見栄を張らなければ安価で出来る。参加を広く呼びかける事が出来る。多くの人達と同じ場を共有する事が出来る。

 先輩ブログを読んでいたら、こういう言葉に出会った。

 【仏法には三つのことがある 仏事 法事 僧事
  仏事 荘厳 仏への敬いを形にする
  法事 法を伝える お話をする
  僧事 講 お斎 ご飯を食べる】
 (http://www.gyokueiji.net/blog/2008/11/post_835.htmlより)

 披露宴は『僧事』にあたるのだろう。

 見栄を張る。張りたがる。エゴを満足させる、プライドを満足させる。
 「恥をかかないように」
 という、悪循環。

 見栄という欲望。
 その欲望を満足させる為の道具が結婚式なのか。

 『生死を離れる』
 生老病死という迷いの世界から離れる。

 欲望を満たそうとする生き方は迷いでしかない。
 結婚式が大切ならば、その大切な事柄において『見栄』を優先させるのか、それとも『生死を離れる』事を優先させるのか。
 世間を主にするのか、仏法を主にするのか。
 それだけの話である。
 そして、放っておくと『見栄』を優先するだけの話である。

メロンパン

2008年12月04日 | 坊主の家計簿
 12月4日

 外食  かき揚げ蕎麦       347円
     ラーメン         600円
 雑費  居酒屋         4500円
     タンガクラブ会費    5000円
     タンガクラブビール    500円

 合計             10947円
 12月累計          13350円

 所用で外出。
 んが、その前に仕事でバタバタしてたので準備しつつ、先日スーパー玉出で『1000円以上買ったら1円』だったチョコチップ入りのメロンパンを食す。
 「あま~い」
 と、食べつつ気になったので袋を見たら541キロカロリーだった。
 まあ、「パワー満点」なんだが、え~。。。

信の回復

2008年12月03日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 12月3日

 雑費  缶ミルクティー        120円
 食類  諸々             471円

 合計                 591円
 12月累計             2403円

 日本に来て初めての秋を迎えた。「京都の秋は絶品でっせ」と、近くの食堂の大将が云っていた様に確かに京都の秋は絶品である。故郷スリランカには見られない紅葉が素晴らしく、色づき散って行く様子が日本人の死生観に合っているのだろう。私もまた私が日本に研究しに来た仏教の「常なるものは存在しない」と云う事を紅葉し散って行く姿から瞑想出来た。
 その日も私は紅葉を見ながら下宿の近くを散歩していた。私が下宿している吉田山周辺の紅葉は素晴らしく、私は紅葉に誘われるがまま散歩をしていた。
 ふと気づくとある寺院から読経が聞こえて来た。私はその寺院の中に入って行った。この寺院に来るのは初めてではない。私が研究している大谷大学にゆかりのある寺院であり、担当教授の紹介でこの寺院の住職とは親しくさせて頂いている。
 しかし、その日の寺院の様子は何時もとは少し違っていた。なにか『華やか』なのだ。私は「何の法要をやっているのだろう?」と不思議に思い、丁度境内に居た僧侶に話かけてみた。
 「いや、今日は仏前結婚式でんねん。○○寺の若さんと、○○寺の娘さんの結婚式でんねん」と答え、「ほら、あの人と、あの人の結婚式ですわ」と、法衣を身に着けた二人を僧侶は指差した。
 「二人とも僧侶なのか?」と、私は質問した。
 「そうでんねん。二人とも大谷大学で学んだ卒業生でっせ。あんさんの先輩でんがな」と、僧侶は云った。
 母国スリランカでは考えられないが日本では僧侶同士の結婚もあるようである。それは仏教の伝統が違うからだろう。日本には日本の仏教が花開いている。どちらが正しくどちらが間違っているという囚われの心は仏教ではない。ただ単に歴史が違うのだろう。私も日本に来た当初は違和感を憶えたが、日本の仏教を真摯に求道されておられる方々との出会いの中でそれは確かめられた。
 そう思いを巡らしながら結婚式を見ていたら、何やら杯が出て来た。
 「あれは何をするのだ?」と私は僧侶に聞いた。
 「あ、あれは三三九度と云って夫婦で杯を交わすわけでんな。三は道教で陽数とされ目出度い数字とされているわけでんな。それを三回繰り返す事により、より目出度い九にしてこの目出度い結婚式を誓うわけでんな。」
 「それは道教の発想だろう。真宗仏教の中でも『焚焼仙経帰楽邦』として曇鸞が道教を捨てた事を大切にしているのではないのか?」
 「何を固い事云うてまんねん。日本の伝統でんがな、伝統」
 「日本の伝統といっても、それは仏教の伝統ではないのではないのか?真宗仏教には真宗仏教の伝統があるのではないのか?」
 「もう。。。これだから小乗の人はイヤなんだ。。。土着の習俗でんがな。イヤならあんた、スリランカに帰りなはれ。」
 私はその僧侶との関係をこれ以上悪くしたくなかったので質問を辞めようとした。だが、最後にひとつだけ質問してみた。
 「あの杯の中には何が入っているのだ?」
 「何って、酒に決まってまんがな。日本では昔から杯事は酒と決まってまんねん。」
 どうやら、私が考える以上に日本に来た仏教はスリランカの仏教とは違っているみたいである。結婚式といっても仏前でする以上は法要であろう。その法要の後でなく、法要中に日本の僧侶達は酒を飲むようである。私たちスリランカの僧侶達は酒は飲まない。不酒戒があるから飲めない。しかし日本では僧侶達が法要中に酒を飲んでいる。私も法要や学習会が終わった後に本堂で酒を飲んでいる僧侶達を見た事はあるが、それは決して法要中ではない。法要後の事である。しかし、日本の僧侶達は酒を飲む事を儀式に繰り込んでいる。しかもそれは日本の仏教の考えでなく日本の伝統であり、また三三九度という道教の陰陽の考えから来たものであるらしい。私は彼らが『宗祖』と呼んでいる親鸞の事を思う。親鸞は流罪にあった人である。また、親鸞の仲間達で殺された人達も居ると聞いている。それは彼らにとって大切な信仰『念仏の教え』を守ろうとしたからではなかったのか?守ろうとしたが故に、彼らは弾圧された。私とは違う流れの仏教だが、私は彼らの事を尊敬している。弾圧されても迎合しなかった彼らの事を尊敬している。しかし、彼らの法脈を継ぐ今日の真宗仏教徒、念仏者はどうなのだろうか?いや、言葉を云い改めよう。今日の念仏者達も色々と御苦労されておられる事は知っている。そして今日私が見た仏前結婚式も彼らの苦労の中のひとつなのかも知れない。日本の伝統文化の形を取りながらでも、「それでも仏の教えに出会ってもらいたい!」という願いが仏前結婚式なのかも知れない。しかしながら日本仏教にとっては『他所者』の私から見ると『仏前結婚式が仏教の法要である』と、言い切る事は難しい。
 日本では結婚式は『ハレ』の場である。『ハレ』と『ケ(日常)』と『ケガレ』は輪廻ではないのか。日本仏教的に云うのならば『迷い』ではないのか。その迷いを肯定する事は仏教ではないのではないのか。『ケガレ』が仏教でなく神道の発想であるのならば、『ハレ』も神道的発想ではないのか。『目出度い席』等というが、その反対は『喪に服す』ではないのか。日本では喪中にハレの場である結婚式はしないと聞く。そういう迷いを肯定し続けて行く事が仏教であるとは、やはり私には思えない。
 『焚焼仙経帰楽邦』。恐らく彼らが毎日勤行している正信偈の中に出て来る言葉である。真宗門徒なら慣れ親しんだ言葉である、はずである。だが、今日の仏前結婚式は決して『焚焼仙経帰楽邦』ではなく、迷いを積み重ねているだけではないのか。
 先にも書いたが、この事が彼らにとっての『御苦労』であれば、それはそれで構わない。しかし、御苦労でなく当然の事としているのならば、私は彼らの事を私と同じ仏弟子とは呼びたくない。単なる外道でしかない。
 その事は彼らにとっての宗祖である親鸞も
 【五濁増のしるしには この世の道俗ことごとく 外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せり】
 【かなしきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに 仏教の威儀をもととして 天地の鬼神を尊敬す】
 として悲嘆されておられるが、彼らに親鸞のような悲嘆はあるのだろうか。
 悲嘆があり、教えに反しているという自覚があれば彼らは私と同じ仏弟子だが、悲嘆なく、反している自覚がないのであれば仏教で救われたいと思っているのであろうか。
 私は境内で会った僧侶から『固い』と云われたが、確かに私は『他所者』であり、かつ頑固な人間なんだろう。ひょっとすると彼らが当然の事として行っている事が他所者の私だから見出せたのかも知れない。それなら尚更私は云いたい。
 『焚焼仙経帰楽邦』ではなかったのか?と。
 仏前結婚式は大切な法要ではないのか?と。
 大切な法要であれば、大切な法要であればこそ、より深く仏の御前で仏からのメッセージを聞くべきではないのか?と。
 それが信仰ではないのか?と。


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 なんぞと書いてみた後に、ふと『信の回復』(和田稠)を本棚より取り出して少し読んでみた。こんな事が書いてあった。

【『教行信証(化身土末巻)』において、聖人は多くの経・論・釈から引文して、仏教にあらざる外教として「鬼・神・魔」の俗信をあげておられます。それは禍福をえらばずにおれぬ人間の弱さにつけこんで人を脅かし、誑し、惑わせ、それによって人をして怖れしめ、へつらわせ、祭祀に奔命させて、ついに「生きる屍」と化してしまいます。】(124ページより)

 吉凶禍福は特異ジャンルである。なんせ割り箸を割る時にバランスが悪ければそれだけで「今日は縁起が悪いのぉ。。。」と考えてしまうのが私だからだ。常に私にとって都合のイイ人生を選択しているのが私でしかない。身に染み込んだ煩悩が必然的に吉凶禍福を選び、常に私にとって『目出度い』ものを選ぼうとしているのが私でしかない。
 そして、私にとって都合の悪い私、都合のイイ私を選ぶのと同じく、私にとって都合の悪い人、都合のイイ人を選んでいるのが私でしかない。
 好きで一緒になったのならば、きらいになれば別れるのだ。都合が悪くなれば別れるのだ。それが紛れもなく私自身である。

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 1 「えらばず、きらわず、みすてず」の如来の本願に触れ、
 2 「はじめに尊敬あり」と生活を切り開き、
 3 困難にぶつかり、それをまっとうできない時の「だからこそ」といういのちのさけびを聞く。
 (狐野秀存『竹中智秀先生とは誰であったのか 生活をひらく三つの言葉』37ページより)

『子生婦』では『よろこぶ』事が出来ない

2008年12月02日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 12月2日

 食類  諸々          350円

 合計              350円
 12月累計          1812円

 結婚に関する食を、ちょい調べる。
 恐るべき事実が解った。。。っちゅうか、私が知らんかっただけなのだが。。。
 
 昆布、っちゅうもんがある。これはよく知っている。「やっぱし関西のダシは昆布が決めてでっせ」の昆布である。
 この昆布も結婚に関する食として出て来る。主に結納なんかに出て来るらしい。
 なして昆布なのかというと、まあ、『よろこぶ』から来ている親父ギャグ系であり、また、繁殖力が強いから『子生婦』と云う漢字をあてるらしい。
 え~。。。
 女性は産む機械である。
 ♪お袋さん お袋さん
 である。
 やはり女性差別は当然の事なのだ。それは日本文化が認めているではないか。上野千鶴子は間違っとる。。。
 ちゃう、っちゅうねん。
 とりあえず結納で昆布を出されたら、「私は産む機械ではありません」と明確に意思表明しよう。

 ちなみに『子生婦』は嫁入りの時の言葉であるらしい。
 では婿入りの時にはどういう字を書くかと云うと『子生夫』という字を書くらしい。『幸運夫』という漢字を使う場合もあるらしいのだが、『子生婦』に対しては『子生夫』なのだろう。
 え~。。。両方共、人間を舐め腐った話やのぉ。。。

 夫婦は子孫を残す機械ではない。当り前である。子孫を残す機械であるのならば人間ではない。人間として尊敬するのであれば『子生婦』『子生夫』という言葉は出て来ないはずである。
 だが、出て来る。検索した結果、圧倒的に『子生婦』であるので、『子生婦』としてもう少し。

 ある先輩夫婦が居る。当然『子生婦』の社会なんだろう。ただ、その先輩の結婚した相手は『子生婦』ではなかった。なかった時に周囲の人達が何をしたかと云うと、単純な話である。追い出しにかかった。『子生婦』ではなかったのだ。『子生婦』でなかったが故に、「出て行け!」と。
 人権無視も甚だしい。
 仏教には人権という言葉はないが、排除は大問題である。その人を『子生婦』としてしか見れない事は迷いでしかない。それが故に「あいつは子生婦ではない」と排除する事が当然ならば仏教徒ではない。
 つまり、人権も無視し、仏教も無視している。
 それが『子生婦』という言葉である。
 そういう言葉が検索してみるといっぱい出て来る。まあ、それだけ習俗として認知された差別用語なんだろう。だが、差別用語は差別用語にしか過ぎないし、当然、仏教徒が使う言葉でもない。差別者が使う言葉である。

【たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人あって、我が名字を聞きて、歓喜信楽し、菩提心を発して、女身を厭悪せん。寿終りての後、また女像とならば、正覚を取らじ。】(無量寿経より)