坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

チベットチベット

2008年12月08日 | 坊主の家計簿
 12月8日

 外食  ラーメン2        1300円
 雑費  タバコ10        3000円
     参加費           500円
     本            1300円

 合計               6100円
 12月累計           32475円

 御近所の寺でチベット問題の法要。
 んが、夕方からの御参りがあったので途中参加。
 住職さんの話の後で、映画『チベットチベット』(http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD698/index.html)を観る。

 監督、っちゅうか、撮影した人は在日三世の人だった。
 映画の最後辺りは機材のトラブル(?)によってちゃんと観れなかったのだが、在日三世の兄ちゃんが、『在日』としての名告りをする覚悟を得た旅行記の映画でもあった。っちゅうか、主にそういう視点で見てしまった。
 チベットの人達は民族性を奪われた。それが故に「私はチベット人である」と。

 ふと、『バラバラで一緒。違いを認める世界の発見』っちゅう言葉を思い出す。
 また、藤場先生の『背理を伴う名告り』という言葉も思い出す。

 「貴様は中国人になれ!』
 『貴様は日本人になれ!』
 という強制。

 『世間ではこうするのが普通である』という強制。
 習俗の強制。
 これを一緒にすると、チベットの人達や、在日の人達にとっては失礼かも知れないが、『強制を拒否』するという部分においては同じだと思う。
 
 違うのだ。
 『習俗』と云っても統一されたものではない。真宗には真宗の習俗がある。伝統がある。
 また、ありとあらゆる事柄から強制される筋合いはない。

 強制には選びがない。選ぶ事が出来ないのだ。
 チベット人がチベット人として生きようとする事すら出来ない。
 
 違いを認められないのは偏見でしかない。ワガママの延長でしかない。
 「そこに居られる人」を認められないのはエゴでしかない。自分の偏見を押し付けているだけの話である。
 それを『エゴ』と認めるのならば、サシである。1対1の関係でしかない。しかし、そこに『正義』であるとか、『解放』とかの大義名分がつくと、1対1と云うワガママのエゴが忘却してしまう。
 
 ワガママなのだ。エゴしかないのだ。決して正義ではないのだ。所詮、私のこだわりでしかないのだ。
 そのエゴから見たら『他者』など『変な人』にしか過ぎないのだ。
 しかし、そこに生きておられるのだ。
 
 正義を前提に持つが故に「あの人たちは解っていない」「あの人たちを解放しなければならない」になる。
 ちゃう。エゴでしかない自覚ではないのか。
 中国政府ならば、中国政府が幾ら綺麗事を並べようともエゴでしかない。人間のやる事なのだ。
 「これが世間の常識です」でも同じ。んなもんは単なるエゴでしかない。エゴである以上は、60億人が集まって『これは正しい』と云おうが、エゴでしかない。60億人対1人でも、サシのエゴとエゴでしかない。
 
 生身の人間にエゴから離れる事は出来ない。エゴはエゴでしかない。

【一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。】(釈尊)

 え~。。。ベロンベロンに酔える寺なので、ベロンベロンでふ。