坊主の家計簿

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 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

信の回復

2008年12月03日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 12月3日

 雑費  缶ミルクティー        120円
 食類  諸々             471円

 合計                 591円
 12月累計             2403円

 日本に来て初めての秋を迎えた。「京都の秋は絶品でっせ」と、近くの食堂の大将が云っていた様に確かに京都の秋は絶品である。故郷スリランカには見られない紅葉が素晴らしく、色づき散って行く様子が日本人の死生観に合っているのだろう。私もまた私が日本に研究しに来た仏教の「常なるものは存在しない」と云う事を紅葉し散って行く姿から瞑想出来た。
 その日も私は紅葉を見ながら下宿の近くを散歩していた。私が下宿している吉田山周辺の紅葉は素晴らしく、私は紅葉に誘われるがまま散歩をしていた。
 ふと気づくとある寺院から読経が聞こえて来た。私はその寺院の中に入って行った。この寺院に来るのは初めてではない。私が研究している大谷大学にゆかりのある寺院であり、担当教授の紹介でこの寺院の住職とは親しくさせて頂いている。
 しかし、その日の寺院の様子は何時もとは少し違っていた。なにか『華やか』なのだ。私は「何の法要をやっているのだろう?」と不思議に思い、丁度境内に居た僧侶に話かけてみた。
 「いや、今日は仏前結婚式でんねん。○○寺の若さんと、○○寺の娘さんの結婚式でんねん」と答え、「ほら、あの人と、あの人の結婚式ですわ」と、法衣を身に着けた二人を僧侶は指差した。
 「二人とも僧侶なのか?」と、私は質問した。
 「そうでんねん。二人とも大谷大学で学んだ卒業生でっせ。あんさんの先輩でんがな」と、僧侶は云った。
 母国スリランカでは考えられないが日本では僧侶同士の結婚もあるようである。それは仏教の伝統が違うからだろう。日本には日本の仏教が花開いている。どちらが正しくどちらが間違っているという囚われの心は仏教ではない。ただ単に歴史が違うのだろう。私も日本に来た当初は違和感を憶えたが、日本の仏教を真摯に求道されておられる方々との出会いの中でそれは確かめられた。
 そう思いを巡らしながら結婚式を見ていたら、何やら杯が出て来た。
 「あれは何をするのだ?」と私は僧侶に聞いた。
 「あ、あれは三三九度と云って夫婦で杯を交わすわけでんな。三は道教で陽数とされ目出度い数字とされているわけでんな。それを三回繰り返す事により、より目出度い九にしてこの目出度い結婚式を誓うわけでんな。」
 「それは道教の発想だろう。真宗仏教の中でも『焚焼仙経帰楽邦』として曇鸞が道教を捨てた事を大切にしているのではないのか?」
 「何を固い事云うてまんねん。日本の伝統でんがな、伝統」
 「日本の伝統といっても、それは仏教の伝統ではないのではないのか?真宗仏教には真宗仏教の伝統があるのではないのか?」
 「もう。。。これだから小乗の人はイヤなんだ。。。土着の習俗でんがな。イヤならあんた、スリランカに帰りなはれ。」
 私はその僧侶との関係をこれ以上悪くしたくなかったので質問を辞めようとした。だが、最後にひとつだけ質問してみた。
 「あの杯の中には何が入っているのだ?」
 「何って、酒に決まってまんがな。日本では昔から杯事は酒と決まってまんねん。」
 どうやら、私が考える以上に日本に来た仏教はスリランカの仏教とは違っているみたいである。結婚式といっても仏前でする以上は法要であろう。その法要の後でなく、法要中に日本の僧侶達は酒を飲むようである。私たちスリランカの僧侶達は酒は飲まない。不酒戒があるから飲めない。しかし日本では僧侶達が法要中に酒を飲んでいる。私も法要や学習会が終わった後に本堂で酒を飲んでいる僧侶達を見た事はあるが、それは決して法要中ではない。法要後の事である。しかし、日本の僧侶達は酒を飲む事を儀式に繰り込んでいる。しかもそれは日本の仏教の考えでなく日本の伝統であり、また三三九度という道教の陰陽の考えから来たものであるらしい。私は彼らが『宗祖』と呼んでいる親鸞の事を思う。親鸞は流罪にあった人である。また、親鸞の仲間達で殺された人達も居ると聞いている。それは彼らにとって大切な信仰『念仏の教え』を守ろうとしたからではなかったのか?守ろうとしたが故に、彼らは弾圧された。私とは違う流れの仏教だが、私は彼らの事を尊敬している。弾圧されても迎合しなかった彼らの事を尊敬している。しかし、彼らの法脈を継ぐ今日の真宗仏教徒、念仏者はどうなのだろうか?いや、言葉を云い改めよう。今日の念仏者達も色々と御苦労されておられる事は知っている。そして今日私が見た仏前結婚式も彼らの苦労の中のひとつなのかも知れない。日本の伝統文化の形を取りながらでも、「それでも仏の教えに出会ってもらいたい!」という願いが仏前結婚式なのかも知れない。しかしながら日本仏教にとっては『他所者』の私から見ると『仏前結婚式が仏教の法要である』と、言い切る事は難しい。
 日本では結婚式は『ハレ』の場である。『ハレ』と『ケ(日常)』と『ケガレ』は輪廻ではないのか。日本仏教的に云うのならば『迷い』ではないのか。その迷いを肯定する事は仏教ではないのではないのか。『ケガレ』が仏教でなく神道の発想であるのならば、『ハレ』も神道的発想ではないのか。『目出度い席』等というが、その反対は『喪に服す』ではないのか。日本では喪中にハレの場である結婚式はしないと聞く。そういう迷いを肯定し続けて行く事が仏教であるとは、やはり私には思えない。
 『焚焼仙経帰楽邦』。恐らく彼らが毎日勤行している正信偈の中に出て来る言葉である。真宗門徒なら慣れ親しんだ言葉である、はずである。だが、今日の仏前結婚式は決して『焚焼仙経帰楽邦』ではなく、迷いを積み重ねているだけではないのか。
 先にも書いたが、この事が彼らにとっての『御苦労』であれば、それはそれで構わない。しかし、御苦労でなく当然の事としているのならば、私は彼らの事を私と同じ仏弟子とは呼びたくない。単なる外道でしかない。
 その事は彼らにとっての宗祖である親鸞も
 【五濁増のしるしには この世の道俗ことごとく 外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せり】
 【かなしきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに 仏教の威儀をもととして 天地の鬼神を尊敬す】
 として悲嘆されておられるが、彼らに親鸞のような悲嘆はあるのだろうか。
 悲嘆があり、教えに反しているという自覚があれば彼らは私と同じ仏弟子だが、悲嘆なく、反している自覚がないのであれば仏教で救われたいと思っているのであろうか。
 私は境内で会った僧侶から『固い』と云われたが、確かに私は『他所者』であり、かつ頑固な人間なんだろう。ひょっとすると彼らが当然の事として行っている事が他所者の私だから見出せたのかも知れない。それなら尚更私は云いたい。
 『焚焼仙経帰楽邦』ではなかったのか?と。
 仏前結婚式は大切な法要ではないのか?と。
 大切な法要であれば、大切な法要であればこそ、より深く仏の御前で仏からのメッセージを聞くべきではないのか?と。
 それが信仰ではないのか?と。


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 なんぞと書いてみた後に、ふと『信の回復』(和田稠)を本棚より取り出して少し読んでみた。こんな事が書いてあった。

【『教行信証(化身土末巻)』において、聖人は多くの経・論・釈から引文して、仏教にあらざる外教として「鬼・神・魔」の俗信をあげておられます。それは禍福をえらばずにおれぬ人間の弱さにつけこんで人を脅かし、誑し、惑わせ、それによって人をして怖れしめ、へつらわせ、祭祀に奔命させて、ついに「生きる屍」と化してしまいます。】(124ページより)

 吉凶禍福は特異ジャンルである。なんせ割り箸を割る時にバランスが悪ければそれだけで「今日は縁起が悪いのぉ。。。」と考えてしまうのが私だからだ。常に私にとって都合のイイ人生を選択しているのが私でしかない。身に染み込んだ煩悩が必然的に吉凶禍福を選び、常に私にとって『目出度い』ものを選ぼうとしているのが私でしかない。
 そして、私にとって都合の悪い私、都合のイイ私を選ぶのと同じく、私にとって都合の悪い人、都合のイイ人を選んでいるのが私でしかない。
 好きで一緒になったのならば、きらいになれば別れるのだ。都合が悪くなれば別れるのだ。それが紛れもなく私自身である。

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 1 「えらばず、きらわず、みすてず」の如来の本願に触れ、
 2 「はじめに尊敬あり」と生活を切り開き、
 3 困難にぶつかり、それをまっとうできない時の「だからこそ」といういのちのさけびを聞く。
 (狐野秀存『竹中智秀先生とは誰であったのか 生活をひらく三つの言葉』37ページより)