坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

クリスマスの恥

2008年12月25日 | 坊主の家計簿
 12月25日

 食類  ペット水小12     600円
     諸々          195円

 合計              795円
 12月累計         95000円

 う~い~。。。
 昨日も夕寝で爆睡、今日も爆睡と。但し、昨日は目覚めたら『深夜1時過ぎ!』っちゅう爆裂的な時間だったのだが、今日は20時過ぎ。
 起きてテレビをつける。チャンネル、ウロチョロ。
 『大食いなでしこが行く!全国“デカ盛り店”ベスト30』っちゅう番組にハマる。

 『デカ盛り』あるいは『テラメシ』とも云ったりもするのだが、ボリューム満点のメシ。ちなみに私は基本少食である。宇都宮まきちゃんの様に回転寿司50皿も食べた事もなく、せいぜい『ラーメン&焼き飯』『ラーメン大盛り』程度である。
 しかし、デカ盛りには夢がある。
 今日の『デカ盛りナンバーワン』に選ばれた店の女将さんは戦中や、その後に台風で被災した時の「食べれなかった」時の苦労があり、それが現在のデカ盛り店の遠因になっているらしい。「お腹いっぱい食べて貰いたい」そういう気持からデカ盛りになっているらしい。

 しゃて、不景気である。なんか「マスコミが煽っている」という評判もあるらしいが、マスコミは広告収入という世の中で一番どうでもエエ事柄で成り立って居るので不景気になると当然困る。だから、この「マスコミが煽っている」という指摘はどうなんだろうか?なんかピント外れの気がするのだが。
 私は、不景気以前に、『もったいない不景気』でもある気がするのだが。え~『MOTTAINAI』か。なんか世界語にして流行させようとしている人達がいるらしく、私も賛成するのだが、『MOTTAINAI』では不景気になる。車は別に5年や、10年で新車に乗り換えなくとも、マメにメンテしてたら充分走るらしい。タクシーの運転手曰く「100万キロでも走る」との事。まあ、タクシーなんぞは年間10万キロぐらい走ってるのだろうし。
 そのしわ寄せが期間工であったり、派遣労働者に行く。っちゅうか、行っている。

 クリスマスである。クリスマスになると「ああ、日本人だ。。。」と思ったりする。ちなみに『日本人』等はいない。国民の象徴は天皇だが、天皇が日本人か?あんな生活をした日本人は珍しい。
 『日本人』は居ない。日本国籍を持っている人達は多くいるが、『日本人』はいない。そんな人は居ない。それぞれの宗教や、それぞれの習俗を持った人達が居ているだけである。また、個々が違う。『日本人の性格』等はあり得ない。っちゅうか、誰にも決めれない。
 が、何か『日本人』として定義つけられる。真宗門徒には真宗門徒の伝統文化があり、『真宗門徒のしるし』が、つまり他の宗教をやっている人達とは違う『しるし』があるにも関わらず、『日本人』として、まあ、『作られた日本国民』としてある。まあ、『長いものには巻かれろ』みたいな感じのヤツなんだが、これが最早『作られた日本人像』でしかない。一向一揆や、法華一揆をやった日本人の伝統もある。
 だが、それ等が忘却されつつあり、クリスマスにはクリスマスを煽る。クリスマスをしなくても別にバチは当らない。が、『恥』であるという様な支配イデオロギーの内面化、っちゅうか、奴隷根性っちゅうか、そういうものを煽る。
 『恥』とは武士道においては重大な事柄なんだろうが、仏教には一切関係ない。プライドなんぞ自我解放の邪魔にしかならない。
 
 自己責任。え~。。。左派系では無茶苦茶評判が悪い言葉なんだが、自己責任がなければどうしょうもないではないか?と私は思う。
 派遣労働者や、期間工員が首を切られたのは、派遣社員や、期間工員の自己責任でしかない。
 経営者や、周囲の人達の責任ではない。単純な話である。経営者や、周囲の人達は困らない。困るのは首を斬られた当事者である。
 こういう自己責任をハッキリさせずに「社会が悪い」等と社会の責任にしてしまうと、当事者の生きる力が奪われる。
 悪いが、経営者や、周囲の人達は困らないのだ。困るのは当事者なのだ。ここで自己責任をハッキリささずに周囲の問題にしていると、労働者は奴隷のままである。
 『日本人』等居ないにも関わらず、漠然として『日本人』に自らを当てはめようとしているのと変わりない。自己がない。
 自分の人生なのだ。他の誰でもなく、自分の人生でしかない。自分の人生は、自分で選んで決めるしかないのだ。

【谷はすべて身を起こし】
 (イザヤ書40ー4より)

【この世の中に貧富の凹凸があるとすれば、いっぱい持っている人が、率先してまず自分の身を削いで貧しい谷間を埋めていく。荒れ地を造成していくときの、盛り上がっているところをブルドーザーで削ってへこんでいるところに持っていって、平にする道理です。しかし、聖書の言葉は、そうではない。逆だと言うんですね。言われてみれば、確かにそうです。世の中甘かないというか、いっぱい持っている人が、進んで貧しい人たちに関心を向けるかというと、これ絶対といっていいくらいあり得ない。絶対といっちゃ言い過ぎですけれども、ほとんど無理。だいたい貧しい人たちに気持がフッと向いている人たちというのは、自分もそこそこかつかつの中でがんばっている人たちが多いです。そして、何はともあれ豊かさの中にいる人に、「お前ら早く気がつけよ」。これは無理な注文なんです。むしろ、現実にしんどいとこに立たされているその人が、しんどさをまず叫んでいけ、訴えていきなさいというのです。足を踏まれてるのなら「痛い」と、踏まれている人がまず声を上げる。】(本田哲郎    『1996年度さけび』37~38ページより)

 クリスマス→除夜の鐘→初詣と、この3回ともに参加する人がどれだけ居ているのかは知らない。
 もし、参加するのであれば、それは「世間がそうだから」ではなく、あくまでも「私が行きたいから」と。
 宗教的には3つはバラバラだが、んな事は関係ない。参加する、参加しないという意志が自分にあるのか、世間にあるのかが問題である。
 参加意志があくまでも『世間』なら、辞めとけばイイだけの話である。恥を怖れる程、恥ずかしい事はない。

 デカ盛り。貧しかった時代。食べるのに困った時代だからデカ盛り。安くて、美味くて、かつ、デカ盛り。
 「いっぱい食べて行ってね」という気持のデカ盛り。貧しかった時代の遺物。その遺物が、遺物ではなくなった。

 声を挙げる。
 「首にするな!」
 「住む所をよこせ!」
 「生活を保障しろ!」
 決して恥ずかしい事ではない。
 『恥を忍ぶ』方が、『武士は食わねど高楊枝』の方が、カッコ付けて、余程恥ずかしい。
 『世間様』を気にして生きる方が、余程恥ずかしい。

【イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。】
 (マタイ12ー9~14)

【ただ仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず】(親鸞)