坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

除夜の鐘

2008年12月31日 | 坊主の家計簿
 12月31日

 1円も使ってません。

 12月累計     139972円

 昼過ぎに起きてダラダラと。
 2日分の家計簿を書いて、ついでに今日の分も。も少ししたら除夜の鐘で出かけるし。


【(梵行品)また言わく、その時に、王舎大城に阿闍世王あり。その性弊悪にしてよく殺戮を行ず。口の四悪、貪・恚・愚痴を具して、その心熾盛なり。乃至 しかるに眷属のために現世の五欲の楽に貪着するがゆえに、父の王辜なきに横に逆害を加す。父を害するに因って、己が心に悔熱を生ず。】(252ページより)

 『苦悩は如来の陣痛である。』とかいう言葉がある。誰の言葉かすっかり忘れたが、真宗仏教の歴史の言葉。

 煩悩は除夜の鐘でなくなる事はない。
 正月というハレの日を迎えるにあたって、煩悩を消し去る必要もない。
 苦悩から逃げたい、イヤな事から逃げだしたい、というのが、年間を通しての日常ではなかろうか。その日常は決してハレの日であっても変わる事などあり得ない。あり得るわけがない。

 都合の悪い事柄から逃げだそうとする、排除しようとする。
 『ハレの場』に相応しい、相応しくない。
 「こういう私はイヤ」
 「ああいう他人はイヤ」
 そんな煩悩が除夜の鐘で『なくなった』という気分の方が危ない。

 煩悩具足の凡夫の自覚。
 煩悩は煩悩である。決して当然の事ではない。
 正月というハレの日の前に、煩悩を忘れるのではなく、煩悩であった事を見つめる。
 他の誰でもなく、私自身の1年間であった事を認める。
 逃げも隠れも出来ない、他の誰でもなく、私自身の1年間であった事を認める。
 罪は罪である。煩悩は煩悩である。
 「みんなやってるし、気にせんでもエエやん」
 ではなく、他の誰でもなく、間違いなく私自身の1年間であった、と。
 それが、どんな1年間であろうと、「この1年間は私の人生の中の掛替えのない1年間であった」と。