坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

水曜日は水アカを落とす日

2008年12月19日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 12月19日

 外食  ちくわ天蕎麦       326円
 雑費  缶ミルクティー      120円
     薬局          1324円
     ジャケット       3990円
 食類  諸々          1014円

 合計              6774円
 12月累計          73249円

 そろそろ、『ド』が付く程疲れて来たのぉ。。。
 20、21、22、23、24、25、26、27、28
 と、後9日か。。。

 と云う事で、今日もバタバタ御仕事終わった後はダラダラと『GOD HANDS』とかいう手品番組を見る。
 手品も凄かったのだが、途中やってたCMで『水曜日は水アカを落とす日』という衝撃の事実を知る。しかも、「何故水曜日なのか?」と云う事に対して「キンチョウが勝手に決めました」というコメントが。
 http://www.suiyoubihamizuakawootosuhi.com/
 素晴らしい、素晴らしいぞ。

 今日、2008年12月19日は友引らしい。
 これも水アカを落とす日と同じく誰かが勝手に決めたのだろう。
 仕事中に墓の相談で「墓には長男しか入ったらアカンと聞いてんけど」と云う話を聞いたのだが、あれも水アカを落とす日と同じ誰かが勝手に決めたのだろう。
 こういう会話に対する答えなんぞはなく、その時のケースで諸々喋ったりしているのだが一番よくいうのは「根拠を示せ」という事である。
 「そんな事を云う人には『根拠を示せ!』って云ってやったらエエですやん」と。
 当然、根拠なんぞない。水アカを落とす日と同じく誰かが勝手に決めただけの事である。

 しゃて、『水曜日は水アカを落とす日』という事については「キンチョウが勝手に決めました」と。これが2008年である。
 しかーし、100年後には『キンチョウが勝手に決めました』と云う事が忘れ去られ、そして「水曜日は水アカを落とす日」と云う事だけが固定化されるかも知れない。
 
 「ちょっと、奥さん、聞いてえや。今度来たウチのヨメ。水曜日に水アカを落とせへんねんで」
 「うそ!ホンマ?ほんまに最近の若い子は教育がなってないし、世間知らずで困るわ」

 女性の役割を固定化しているが、え~。。。その辺、御了承を。文句があるのなら何時でも受けて立つ。
 
 もとい。
 上記のオバはん2人の会話は当然架空であるが、似た様な話は幾らでもある。

 「最近の若いヤツ等は『チャペル』とかいうバテレンの寺で結婚式をしとるが、日本人は昔から神社で結婚式をすると決まっているのだ」

 神社で結婚式が行われるようになったのは、1897年(明治30年)に東京日比谷大神宮で行われたのが公式には初めてらしい。
 1879年(明治12年)に新潟であったらしいが、非常に珍しかったらしく新聞記事にもなっているらしい。
 まあ、神社での結婚式っちゅうても、100年ちょいである。100年ちょいで「昔から」もクソもない。単に時代の流れについていけない年寄りが戯言をヌカして、「最近の若いヤツ等は」(意訳 私は正しい)にしか過ぎない。世間知らずは「昔はこうだった」というたかが100年ぐらいの歴史を誇りたがる年寄りの方である。
 つまり、

 「なあ、聞いてえや。うちの爺ちゃんが「日本人の結婚式は昔から神社と決まっとる」とかイイよんねんやんか」
 「うそ?マジで?ほんま、年寄りは世間知らずやなぁ。。。」

 である。

 ちなみに仏前結婚式は1893年(明治26年)に本願寺派の藤井宣正が東京白蓮社会堂でしたのが初めてだと云われている。

 それまでは『結婚式』なんぞなかったのだ。単にキリスト教の影響を受けて作ったにしか過ぎない。

 で、ここからはまだ調べてないので勝手な想像で書くのだが、キリスト教の人達が神の御前で結婚を誓うように、日本では『天皇』でなかったのか。当時は神道国家であり、天皇は神であった。
 それまでの結婚なんぞはエエ加減なもんだったはずである。『結婚式』なんぞでは当然なく、また、床の間がある部屋での杯事なんぞも、床の間がない家では無理である。また、『結婚』という概念も今とは違うし。
 そういうかなりエエ加減な『結婚』っちゅうか、まあ、『夫婦』になる、っちゅう事をそれぞれの神社を通して天皇に誓う、みたいな働きがあったのが『神前結婚式』でなかったのか?と勝手に想像する。
 
 ちなみに神社での結婚式が少々広まったきっかけは1900年(明治33年)大正天皇(当時は皇太子)に神前結婚式をした事かららしい。

 『水曜日は水アカを落とす日』であるとキンチョウが勝手に決めたらしい。
 三三九度は小笠原流が勝手に決めたらしい。
 誰かが勝手に決めた事に対して無条件に受け入れてしまう、「昔からそうだった」「世間ではそうである」等という人を奴隷と云う。自己責任のない奴隷にしか過ぎない。
 世間知らずであるが故に、世間に魂を売り渡した奴隷にしか過ぎない。
 当然、生きていて面白いわけがない。言葉を言い換えよう。もっと面白い世界がある。世界はデカイのだ。限りなくデカイのだ。狭い檻の中に閉じ込められた奴隷が楽しいわけがない。