坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

如来の子

2008年12月22日 | 坊主の家計簿
 12月22日

 雑費  缶ミルクティー      120円
     ビデオテープ3      980円
     薬局          4687円
     喫茶店          480円
     居酒屋         3440円

 合計              9707円
 12月累計          87641円

 所用で外出。
 なんだが、その前に本日蒼井優ちゃんが出るテレビがあり、3時間近くらしいので180分のビデオテープを買って来て録画予約。
 んで、外出。なんだが、昨日、足の甲を捻挫してもうて、おもくそ腫れまくっているのでゆっくり準備、ゆっくり行動。試しに走ってみたら、やっぱり痛かった。
 師走なのに。。。これでは全日本仏教会が主催しているマラソン大会に出れないではないか。。。っちゅうか、そんなイベントないけど。 

 ヘロヘロでもあるし、捻挫の事もあるので終電前に帰宅。え~と、電車に乗ったのが22時ジャスト。終電には見られない子連れの夫婦が居てた。多分、3歳ぐらいのガキと、産まれたてホヤホヤ、ん?もう少し経ってるかな?でも、赤ちゃん。
 
 帰宅して廣瀬先生の『誕生を祝う』(東本願寺伝道ブックス23)を読む。

【「生まれること」とは、肉体の誕生することの説明語ではなくて、「生まれる」ということが「生きること」の内容になってこそ、初めて人間の一生は、事実は死に向っての人生であっても、その中身は「生まれる」という事実を一刻一刻と生きていくのである。生命の終わる時まで、「生まれる」という事実を生きていくのである。悲しみがやってくれば、悲しみを通して、悲しまなかった時の自分ではなくて、悲しむ自分に新しく生まれるのであり、辛いことがやってくれば、辛い時がなかった時の自分ではなくて、辛いことを引き受けて生きていくような新しい自分に生まれる。そのように人生とは、生まれていく生なのでしょう。そして生命の終わる時、すなわち、死の瞬間が一番新しい自分になって「生」を全うしていく。そういう人生が、親鸞聖人が教えてくださった「往生」ということの本来の意味なのだと思います。】(『誕生を祝う』68ページより)

 子連れの夫婦は『お父さん』『お母さん』。子どもが出来た事によって『お父さん』『お母さん』として新しく生まれる。

 親子。子は親の『供え物』ではない。故に『子供』という漢字はおかしい。

【子どもである前に一人の人間であるということ、どんな人も一人の人間である。その人間にもの申す、語りかける。それを忘れたところでは、決してほんとうのつながりはない】(宮城先生『他人さえもいとおしく』30ページより)

【子育ての最終地点は、この子が、この子に成ってくれればいいのだ。この子がこの子で在ってくれればよかったのだ。そうだった、そうだった、と思いがここに至ったときにのみ、親である私の意見を引っ込めることができたし、子どもの言い分に耳を傾けることができて、一つ一つの山を乗り越えてきたのです。】(渡辺尚子『あなたは、あなたに成ればいい』196ページより)

【初子として、親を育てる役割を一番重く荷負った陽子は、今、私の手元から飛び立とうとしています。
 「陽子、あなたは、陽子になればいい」
 それが私の願いです。
 そして、私をお母さんに育ててくれて、ありがとう。】(渡辺尚子『あなたは、あなたに成ればいい』68ページより)

 夫婦は、子が出来る事によって『お父さん』『お母さん』になれる。
 でも、その前に、連れ合いが居てる事によって『お父さん』『お母さん』に成れる。
 子も、連れ合いも、有り難い事である。
 同時にそれは、個人を取り巻くすべての環境があるが故である。決して『家系』という限定された環境ではなく、『日本』という限定された環境ではなく、『人間』という限定された環境ではない。全ての生命あるものも、生命なきものも含めた『いのち』と呼ばれるものがあるが故である。
 関係存在を生きている。決して無駄なものなどあり得ない。何一つ欠けても今の現実はあり得ない。

 私一人だけの幸福なら、親子も夫婦も成り立たない。
 同じく、夫婦、親子だけの幸福ならば、つまり「他所はどうでもエエ」なら、常に『家』の塀を高くする事を考えなければならない。

【今後あなた方がお二人によって作られる家が、いかなるものに向っても等しく開放され、いかなるものをも歓んで迎え容れるというような、そんな広やかな、そんな温かい、そんな文字通りの「如来の家」として新しく創り出されるであろうことを、私は学院に学ばれたお二人の上に、秘かに期待しないではいられぬからなのです。】(信国淳『一蓮托生の生活』より)

 『如来の家』に産まれる『如来の子』。親子共に『如来の子』。