坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

満太郎、残念。

2008年09月15日 | 坊主の家計簿
 9月15日

 諸々  ぶっかけ大       380円
     エスカップ12     628円
     のり弁魚フライ     370円
     グリーンティー     320円
     居酒屋        5000円
     タバコ         300円
     焼き飯大        550円
     ドグラマグラ     1700円?
     漫画喫茶       1200円

 合計            10448円
 9月累計         100451円

 所用で外出。
 え~。。。そのままの勢いでドグラマグラへ。次の日が休みやったし。
 「眠いっす」っちゅう事で漫画喫茶へ。
 ハンター錠二はさすがやのぉ。。。と、感動しつつ寝る。

満月の夕

2008年09月14日 | 坊主の家計簿
 9月14日

 外食  ぶっかけ大      380円
     ラーメンライス    780円
 雑費  交通費        420円
     レモンティー     120円

 合計            1700円
 9月累計         90003円

 所用で外出。

 今日は満月。っちゅうか、中秋の名月、とかいうのか?

 ♪解き放て、いのちで笑え、満月の夕(ソウルフラワー)

 っちゅうやつでんな。

 

おくりびと

2008年09月13日 | 坊主の家計簿
 9月13日

 雑費  タバコ10       3000円
 外食  イカ天蕎麦        326円
 食類  ゆば乳豆腐        198円
     たまご          198円
     レバニラ炒め       149円
     枝豆            61円
     牛肉           220円
 
 合計              4152円
 9月累計           88303円

 今日から、『おくりびと』(http://www.okuribito.jp/)という映画が上映開始らしい。結構話題作であり、ヒットするんだろうし、これはしばらくやってそうやし、暇になったら観に行こ。
 元ネタ(?)は、青木新門氏の『納棺夫日記』らしい。先輩達から紹介はされていたのだが、今まで読む機会がなかったのだが、まあ、映画記念やし、本屋で平積みされている可能性もあるし、買って読も。


【高光先生に次のようなエピソードがあります。三十八歳になるガンを患っている人がいました。その方の奥さんが高光先生に、「ぜひ夫に話してやってくれ」と頼みにきたのです。「枕元に来て、夫が安楽に死ねるように話してやってくれんか」というのです。すると、高光先生が、「ご覧の通りの私の生活だ。こんな貧乏寺の、それも子だくさんのような、普通の人の生活からすると失敗の生活をしている私である。そういう私でよかったら行く」と言いますと、「もうとにかく来てくれ」と頼まれるのです。こういうことで、高光先生は、ガンでもう明日、明後日の命という容態の人のところに行きました。行くと、その方はもう話ができない状態でした。ですから、促されるままに、「あなたの今の断末魔の苦しみというのは、世々生々の苦しみであって、それは人間的希望の絶望であろう」と話したのです。生きるということを前提にしているから、死が目の前に来たら希望が途絶えるのである。明日もあると言っている場合ではない。明日もある、努力すれば願いがかなうというような人間的希望が、今ガンによって絶望のどん底に落とされているではないか。そういう事実について、高光先生は「その希望は、実は過去から約束された絶望であろう」と説くのです。「その絶望は、如来から賜わったという意味があるであろう」と言うわけです。その絶望の意味を見出せ、ということであります。
 すると奥さんが、「ご住職、そんな難しいことを言わないで、夫は死ぬのだから、ナンマンダブツ一つで極楽に生まれるということさえ言ってくれたらそれでいい」というのです。すると高光先生は男性に向かって、「あなたの最愛の妻ですら、ナンマンダブツというような、どこかで小耳に挟んだ念仏をもって、あなたの今まさに永遠のいのちへの更生の絶好の機会をごまかそうということしか言えないのだ。どうせ奥さんは、あなたが死んだ後の生活が成り立つかどうかということを気にしているのだ」と。すなわち、奥さんは人間的希望の中にいるのであり、ガンの夫は、その人間的希望の絶望にいる。人間的希望が絶望するということは、もう手も足も出ない状況になる。手も足も出ない絶望。ところが、この絶望においてはじめて如来招喚の声を聞くことができる。絶望こそ福音なのだ、ということです。「絶望の福音」(「生活日抄」『直道』一九二六<昭和一一>年八月・『道ここに在り』東本願寺出版部)というタイトルの文章が高光先生にありますけれども、そこにこのような出来事が綴られています。人間的希望が絶望する時こそ、永遠の生命に生きる時だというわけです。
 われわれは、人間的希望のなかでしか生きていけないのでしょう。私たちはどこを輪切りにしてもそうです。静かに自分の生活を振り返ってみるとわかります。希望でしか私たちは生きていないのです。しかし、これは常に絶望が約束されている希望です。絶望が底に流れる希望です。ですから、われわれは絶望するより他ない人生を生きているのです。ところがこの絶望が、実はガンに病んでいる人のみに与えられた福音であって、これこそ本当の永遠のいのちの始まりである。そのように高光先生はガンに病んでいる人に説いたのです。
 すると、その方が「わかった、わかった」と言って、涙を流して喜んだのです。私のガンには実は大きな意味があったのだ、ということでしょう。絶望こそ福音である。ですから、人生には絶望はない。おそらくそのように言い切って余りある生涯を、高光先生は生きられたに違いありません。
 私たちは、自分が死ぬということにぶつかったとしても、死ぬまで生きがいを持って生きていこうという話しかできません。死ぬまで人間らしく生きていこうというのが精一杯の生き方です。そのために努力するのです。死ぬまで工夫をして努力して充実していこうというのは、それは「心の延命策」ということになると私は思います。
 そうではないのです。真宗は決して心の持ち方の次第を教えるのではありません。心を持ち替えるのではなく、私に死というものが与えられてある、その死の意味を知るところに真宗の真義があります。如来より賜わりたる『死』。このような強い確信こそ、真宗によって付与されるのではないでしょうか。】(水島見一『大谷派なる宗教精神』43~45ページより)

 
 引用を打ち込むだけで疲れた。。。寝よ。

2008年09月13日 | 坊主の家計簿
 9月12日

 外食  チャンポン      650円
 雑費  回数券       3700円
     焼酎2       4200円
     グリーンティー    320円
     居酒屋       6834円

 合計           15704円
 9月累計         84151円

 所用で外出。なのはエエのだが、変わらず体調がイマイチ。仕事中はなんとかなってたのだが、外出してたら、ド疲れモードに。

卒業記念?

2008年09月11日 | 坊主の家計簿
 9月11日

 雑費  スーツ2        30840円
     100円シュップ     1050円
     電球            178円
     石鹸            298円
 食類  発泡酒           185円
     もやし            29円
     豚ミンチ          123円
     うどん玉           28円

 合計              32731円
 9月累計            68447円

 急に必要になったのでスーツを買いに御近所のスーツ屋へ。スーツ屋には珍しいファンキーなオバはんが接客してくれる。
 すぐに必要な夏用と、ついでに秋冬用も買う。なんせ、『2着目1000円』なのだ。『2着目1000円』と云う事は、2着目の儲けは1着目で賄っているので、2着買ってナンボやし。
 ファンキーなオバはんに夏用のコーナーに案内して貰う。時期が時期なので、余りない。ふと眼を移すと『半額』と書いたコーナーもあって、そこで気に入ったのを買う事にする。んが、悩む。半額なので、この1着だけでも別にエエのだが、秋冬用も欲しいし。なんせ、最近の悪業三昧の生活で腹が大変な事になっていて、スーツもワンサイズ大きくないとキツいのだ。前に買ったスーツは12年前に買ったやつだし、当時スカスカだったウエストが、多分、かなり厳しい。まあ、大丈夫、っちゅうたら大丈夫なんだが、別に2着あってもエエし。
 っちゅう事で秋冬モンを選ぶ。エエのがない。
 スーツは滅多に着ない。着るのは『スーツを着んとアカン場面』ぐらいであって、んな時は無難なのが一番エエのだが、無難なヤツでエエのがない。
 諦めて、夏用のだけを買おうとレジ辺りに行くとバーゲンコーナを発見。
 ファンキーババア。こっちも案内、せえ、っちゅうねん。
 このコーナーで無難で、かつ、お気に入りの夏用と、秋冬用をゲット。1着19000円が2着で30000円なり。2着で6万までを予算にしていたので3万浮いた。ラッキー♪でんな。悩んでいた靴&眼鏡を買う事に決定。

 しゃて、自民党の総裁選らしい。見事に全候補者がスーツを着用して色々と語ってはった。あのスーツも2着目1000円なのかな?政治家なので、オーダー品なのかも知らんが。
 何やら、麻生氏が有利らしい。自民党支持者でない私には基本的には関係ないのだが、やはり単純に面白いし、気になる。

 自民党が麻生総裁で選挙を闘って、民主党に勝てるとは思えん。なんせ民主党は『2着目1000円祭』、ちゃうわ、え~、政権交代のお祭りをやっているし、マスコミの風潮も同じである。本格的な政権交代、つまり『2大政党制』っちゅうんですかい?そんな流れである。その祭に対して麻生氏で勝てるのは思えん。
 勝てるとしたら、小池氏である。小池氏の『日本初の女性総理祭』なら、民主党とエエ勝負になるかも知れん。
 筋書きとしては、圧倒的有利で『出来レース』と云われている自民党総裁戦で、小池氏が決選投票で逆転勝ちする。これは、結構「あ!」だ。かなり「あ!」という衝撃がある。ついでに自民党初の女性総裁である。結構、インパクトも破壊力もある。また、小池氏は自民党総裁はともかくとして、総理大臣になれる器だと思うし。あの強面はエエ感じや。蓮舫もかなりの強面やけど、ちと若い。
 で、小池氏が「あ!」っという驚きの中で自民党総裁選に勝ち、その勢いで民主党の『政権交代祭』に対抗して『日本初の女性総理祭』を打ち上げたら、これはこれで面白い。
 まあ、どっちにしろ、両方の政党には投票しないが。

 んが、まあ、麻生氏が勝つのだろう。で、民主党に政権交代もらって、で、203高地、ちゃう、年金の問題を押し付けるのだろう。民主党は労働組合との兼ね合いもあるし、年金はどうにもならん。そこを突いて、突きまくって、次の参院で自民の大勝→衆院解散→自民の大勝ぐらいな感じなのかな?
 まあ、麻生氏は卒業記念での総理大臣か。

 しゃて、保岡興治法相が死刑執行命令を出し、3人の方が殺されたらしい。
 http://mainichi.jp/select/jiken/news/20080911k0000e040026000c.html
 なにやら、前回に法相になった時にも3人に対して死刑執行命令を出したらしい。

 けど、今回は総理大臣が辞意表明をした後である。
 当然、今でも保岡氏は法務大臣ではあるが、これも卒業記念なのか?
 「ああ、俺はもう二度と法務大臣になられへんわ」
 という卒業記念なのか?

 『普く諸々の衆生と共に、安楽国へ往生せん』(天親・願生偈より)

 保岡氏も私と同じ衆生、つまり執着する存在としての衆生であり、死刑制度で殺された人達も同じ衆生である。
 死刑制度に反対する私も、死刑制度に賛成する人も、私には同じ執着する存在、つまり煩悩具足の凡夫である。煩悩具足の凡夫として、全く対等な、全く平等な存在である。

 「なんで人を殺したらダメなんですか?」
 とか、ガキが云ったらしい。もう、結構前になるのだろうが。
 『生命感覚の欠如』なんぞと云う人も居たが、ちゃうと思う。
 なんで「人間だけが特別なのか?」という問いであると思う。

 テストです。
 第一問
 次の中から、殺してイイものを選びなさい。
 1 ゴキブリ
 2 豚
 3 人間

 第二問
 次の中から、殺してイイものを選びなさい。
 1 死刑囚
 2 アルカイダ
 3 法務大臣

 第三問
 次の中から、殺してイイものを選びなさい。
 1 私の中の好きな部分
 2 私の中のキライな部分
 
 誰が決めれるねん。そんな判断が出来る程のお偉い立場の人が居てるのか?
 立派だから平等なのではなく、極悪人として平等なのではないのか?
 裁く、無意識に裁いている。
 それが法務大臣の立場にあれば、やはり裁いてしまう様な存在として、平等なのではないのか?
 だから、それはおかしい。裁く権利なんぞ、誰にもない。人を殺す権利なんぞ誰にもない。あり得るわけがない。

休日

2008年09月10日 | 坊主の家計簿
 9月10日

 食類  紫充実野菜3      594円
     充実野菜3       504円
     バジルペースト     398円
     カップ麺2       176円
     めかぶ         178円
     冷凍餃子        178円
     海洋深層水6      348円
     しらす         128円
     焼きしゃけ       150円

 合計             2654円
 9月累計          35716円

 休みなので休む。
 っちゅうか、殆ど1日中寝てた。

 夕方にスーツ屋に向かう。近所にある何軒かを廻って居るうちに、それだけでしんどくなる。
 「これは。。。」
 ひょっとしたら風邪かも知らんのぉ。。。数日前から胃の調子がおかしいし。
 っちゅう事で、ゆっくりと休んでます。

鬼畜日記

2008年09月09日 | 坊主の家計簿
 9月9日

 外食  昼飯         557円
     ちゃんぽん      660円
 食類  発泡酒        198円
     無添加ワイン     438円
     赤芋焼酎       980円
     ごぼうチップス     98円
     ショウガ漬物     168円
     しそニンニク     178円
     さけるチーズ     158円
     明太子        398円
     筋子         398円
 
 合計            4231円
 9月累計         33107円

 学習会。
 だったはずなのだが、「よっしゃ出かけよ」と思ったら寺から電話あり。
 まあ、なんちゅうんですか?突然の仕事でんな。誰かが死んだわけでんな。
 仕事は仕事なので、こういう時は諦めんとシャーナイのだが、明日が休みだった事もあり、いきなり気分を削がれた感じでストレス満載。ついでに、諸々の事情で仕事も遅れ、学習会に参加出来ないだけではなく、飲みにも行けない時間に。
 
 フッフッフ。
 鬼畜である。
 鬼畜は、鬼畜であるが故に、仕事が終わった後に、ストレス満タンなので御近所スーパーで「今日は可哀相なので好きなモンを買ってもエエよ」と、普段、滅多に手を出さない明太子と筋子まで買う。無添加ワインも買ったので、これまた滅多に買わない、おつまみチーズも買う。&『ごぼうチップス』っちゅうもんも買う。

 今日、亡くなった兄ちゃんは若かった。親父と私は多分、あんまり歳が変わらんと思う。
 遺体が帰って来た時に読む読経が私の仕事だったのだが、友達なんだろう。若いガキ共が家の前にタムロってた。
 「殺すぞボケ!」
 と、言い合う事はあっても、決して感謝しあう事等あり得ない年代のガキ連中から「御苦労様です」なんぞという言葉を聞く。

 今日の学習会の課題は、

   悪性さらにやめがたし
   こころは蛇蝎のごとくなり
   修善も雑毒なるゆえに
   虚仮の行とぞなづけたる

 という、親鸞の和讃。

 先日、実家のオカンから郵便物が届く。
 実家に送られて来た郵便物をまとめて送って貰っている。
 その中に母校の『坊さん養成所』というか、『専修念仏道場』からの機関紙が入っている。
 恩師、っちゅうか、今の学院長の講義も当然の如く掲載されている。

【まことにわれわれはわれわれ自身の生活を顧みます時、それは完全に浄土を見失った生活であることを認めなければなりません】
 
 という、母校・専修学院に入学前に必ず読まなければならない信国先生の『呼応の教育』という形でまとめられた1964年の入学式で話された講義録の言葉が載ってあった。

 坊さんの道場。
 へっへっへっへ。みんなが仲がエエと思う?
 そんなわけなどない。全寮制であるし、共同生活である。独り部屋なんぞなく、ほぼ1日中同じ部屋のヤツとは顔を合わすのだ。
 当然、他人である。
 他人同士が1年間、同じ部屋に寝泊まりしつつ、かつ、一緒に勉強するのだ。ほぼ、朝から晩まで一緒なのだ。

 1年目、というか、まあ、1年目だけでもエエのだが、その時は力でねじ伏せた。まあ、ワガママし放題状態に近い。
 間に4年間を挟んで2年目に行く。
 幸いな事に、無茶苦茶生意気な兄ちゃんが居てくれた。
 その兄ちゃんが居てくれた事によって、私がどれだけ「みんなと一緒に生きたい」と願っていようが、それとは全く違った生活を送っている事を確かめる事が出来た。
 その時に感じたのが

   悪性さらにやめがたし
   こころは蛇蝎のごとくなり
   修善も雑毒なるゆえに
   虚仮の行とぞなづけたる
   (親鸞)

 である。つまり、一緒に生活をしながら、「こいつさえ居なければ。。。」という、鬼畜の心である。
 「共に生きよう」なんぞという事を学びながらも、一切、そんな事が自分にはない、という事を徹底的に知らされた体験であった。

 当然、そんな事は多々ある。
 私は基本的に「文句があったら殺すぞ」の人間である。故に、それが当り前の事として成立している世界に生きていたのだが、『みんなと一緒に生きたい』という願い、ある意味の綺麗事に感動したが故に、そういう問題意識があったが故に、その上で批判してくれる友が居たが故に、私は、私の残酷性、徹底して鬼畜である、一緒に生活している学友でさえ、自分の都合に当てはめて、いや、「俺に従え」と。
 あくまでも、徹底的に、私中心、自己中心の世界観から抜け出る事が出来ない、そんな事はあり得ない事を、『教え』を学ぶ共同生活の中で徹底的に知らされた。

 んが、『知らされた』とは云え、エエ加減な私の事である。当然、忘れる。
 故に今日の夜の仕事も「なんで俺が行かんとアカンねん」になる。
 その事によって、ストレスが溜る。

 他人の事なんぞ一切考えていない。あくまでも私中心の世界の中で、「私に従え!」というのが私である。私の思い通りにいかない事にストレスを感じるのが、その証拠である。それが事実である。

 それが、エゴであり、『煩悩』である。

 う~ん。。。素晴らしい。素晴らしく酔っぱらって来たぞ。さすがは無添加ワインである。

 出会いを私の都合で判断する。全く無茶苦茶なワガママな存在が私でしかない。
 で、そういう私しか、他の私は居ない。
 
 今日の予定は、ある兄ちゃんが死んだ事によって、全部潰れた。
 でも、その兄ちゃんにとっては掛け買いのない人生。それに『死』という事を通じて関係出来た私。

【まことにわれわれはわれわれ自身の生活を顧みます時、それは完全に浄土を見失った生活であることを認めなければなりません】(信国淳)

   悪性さらにやめがたし
   こころは蛇蝎のごとくなり
   修善も雑毒なるゆえに
   虚仮の行とぞなづけたる
   (親鸞)

 ありがとう。

マッタリ本

2008年09月08日 | 坊主の家計簿
 9月8日

 外食  回転寿司        504円
     焼肉ビール      3270円
 雑費  温泉マッサージ機    900円
     ジュース        120円
     古本          220円

 合計             5014円
 9月累計          28876円

 古本は、徳川宗英『徳川四百年の内緒話』。

 ヘロヘロに疲れていたので、御近所温泉へ。マッサージ機三昧と。
 ヘロヘロには焼肉ビールなので、御近所焼き肉屋へ。途中で上記の古本を買って、読みながらマッタリと。
 かなりマッタリ出来る本だったので、帰宅してからもマッタリと読む。
 そのまま、マッタリ朝まで寝る。

人生に貴賤なし

2008年09月07日 | 坊主の家計簿
 9月7日

 外食  かき揚げ蕎麦      326円
 食類  エノキ          68円
     しょうが天        78円
     うどん玉         20円
     タコ天          49円
     豆腐          128円
 雑費  歯磨き粉        198円
     レンタル        240円

 合計             1107円
 9月累計          23862円

 レンタルは河瀬直美監督の『萌の朱雀』。さすがに自分の胎盤を食べた女が作る映画は違うのぉ。。。なんちゅうんですか?河瀬直美の生理臭がプンプンして来そうな映画やのぉ。。。
 映画の舞台は山村。山村に暮らす家族が出てくるだけの映画。ある家族を描いただけの映画。お父ちゃんが死んで、家族離散になるのだが、それでも山は山なのだ。
 家族は山肌に引っ付いた家で暮らしている。当然、家族だから諸々ある。親父も死んだりする。家族も離ればなれになる。でも、山は、これからも変わらずに山のマンマなんだろう。
 でも、『山』といっても変化がある。山に住むセミは脱皮し成虫にもなる。山肌に住んでいる家族も離ればなれになり、山から去る。『山』といっても、山を構成している様々なものは変化し続けている。
 その上での『山』。

 しゃて、本日の私なんだが、当初の予定では公文の筆ペン練習をするはずだったのだ。
 んが、んがんが、『予定』はやっぱり予定でしかなく、結局ダラダラと。

 自分で自分の事すら思い通りにならない。当然、思い通りになる事もある。タバコを吸おうと思えば、タバコが手元にあり、私が健康で、なんぞという限定付きではあるが、少なくとも今は吸えるし、吸っている。
 んが、筆ペン練習をするはずだったのだが、筆ペンも、テキストも、時間もあったのだが、私の気分が乗らなくてやらない、やれないだけの話なんだが、それでも『出来なかった』事には変わりない。
 「根性、見せたらんかい!」なんだが、無い時は、無いぞ。んなもん。

 ああ、こういう時は『夏バテ』のせいにしときましょう。。。って、ああ、また私の中の星一徹が騒ぎ出す。
 「エロ坊主。そんな事では巨人の星にはなれないぞ!」
 って、別に、なんでならんとアカンねん。
 「巨人の星にならないと父ちゃんみたいになるぞ。貴様は、父ちゃんみたいな土方でもええのか?」
 「父ちゃんは日本一の土方でい」

 ん?何を書いてまんねんやろ。え~。。。まあエエ。そういや、漫画『巨人の星』の再放送では、「父ちゃんは日本一の土方でい」の『土方』が放送禁止用語らしく、「ピー」になってたらしい。土方の兄ちゃんが「俺等の仕事は放送禁止か!」と激怒してたのでよく憶えているのだが。

 職業に貴賤はない。
 当然、身分にもない。
 んじゃ、『生き方』はどうなんだろうか?
 
 『人生に貴賤はない』
 最近は『精神病』のレッテル張りが人気らしいが、まあ、「あなたは精神病ですよ」と云われて楽になる人も居てるのだろうから、別にそれはそれで構わないのだが、別に「うっとうしいヤツ」「ややこしいヤツ」でもエエのではないかと思うのだが。病名がついたら「ああ、あなたって可哀想な人なのね」と同情モードに入るよりも、「そんなヤツ」でもエエのではないかと思うのだが。
 ちなみに鬱病は昔は『無常を感じた』とかなんぞと云われていたのだろう。
 西行なんぞ伊勢神宮に対して
【なにごとの おはしますかはしらねども かたじけなさに なみだこぼるる】
 なんぞと詠んでいるが、まあ、立派な鬱だろう。それ以前にカスだが。
 しかし、カスの西行でも、西行なりの人生があったのだろう。伊勢神宮のわけの解らん権威に対して涙するようなヤツは、『私にとってはカス』だが、西行には西行なりの人生があったのだろう。その人生がエエ人生なのか、悪い人生なのかは知らん。あくまでも西行が決めたらエエだけの話や。きっと、西行には西行なりの人生があり、多分、その中で諸々悩み苦しみしながら生きておられたのだと思うし。
 
 「ふっふっふっふ。ハッハッハッハ。ヒッ!ヒッ!ヒッ!ヒ!。悩み苦しむ下々の者達よ!!!」
 という、カルト臭い差別主義者も、多分、何かしらの理由でもって、悩み苦しむ力を奪われ、無条件に人の上に立つ妄想を抱く事によってでしか自分を保てないような人生があられたのであろうし。それに『騙される』と私は呼ぶが、そういう人に従うことによって自分を保たれる方も居られるのだろう。

 そんな人生。
 それぞれにとって、かけがいのない、圧倒的な人生。誰にも変わってもらえることが出来ない人生。そういう人生を歩んで居られる方々&私。

 人生に貴賤はない。
 貴賤の価値判断をつけれる様な人はいない。

 自分自身での価値判断。
 え~。。。そこまで頭が良かったっけ?
 「私は、ダメだ、ダメだ、ダメだ(以下エンドレス)」
 って、判断出来る程、偉かったっけ?

儚くない『みんなの墓』

2008年09月06日 | 坊主の家計簿
 9月6日

 食類  白身フライのり弁(昨日)   370円
     豆腐(一昨日)        100円
     インスタント味噌汁       89円
     スパゲティー2        316円
     麺つゆ            198円
     豚バラ            286円
     キムチ             88円
     ピーマン            78円
 外食  ぶっかけ小          280円

 合計                1805円
 9月累計             22755円

 朝から暑い。。。先月末にいったん暑さに対して気を許した後だし、夏の疲れも一気に出たのか、しんどいぞ。
 しかも、昨日深夜に食べたラーメンが胃もたれをおこして、朝から「勘弁してえなぁ。。。」状態。
 仕事が終わって、へたる。

 全然関係がないのだが、関西ローカルかも知らんが、何かのコマーシャルで『墓のない人生は儚い人生』なんぞというキャッチコピーがあった。
 当然、キャッチコピーだし、『商売』である。多少の強迫観念も与える事が出来るだろうし、優れたコピーではある。

 真宗の墓の基本(?)は向かって表面に『南無阿弥陀仏』とだいたい書いてある。あるいは『倶会一処』であるとか。で、その横に『○○家』だとか、あるいは墓の横にある石に墓に入っている人達の名前が書いてある。表面に『○○家先祖代々』と書いてある墓もあるが、それを勧めているとは聞いた事がない。
 そういう『墓』には、当然の事、他所様は入る事が出来ない。『うちの墓』んだし。先祖といっても『うちの先祖』である。

【親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。】(歎異抄より)

 という発想方法と『○○家』の先祖だけを供養する発想とは一致しない。

【大谷祖廟は、親鸞聖人個人の墓ではない。「真宗門徒」みんなの墓です。このことは大切だと思います。捨てるというのは二つあって、山への散骨というのは棄という。それからもうひとつは捨。棄骨と捨骨です。棄は廃棄の棄。捨は慈・悲・喜・捨の捨。仏さまの平等の慈悲の心が捨です。大谷祖廟は捨骨です。親鸞聖人の墓だから、誰も入ってはいけないとか、そうではない。みんなの墓ですね。門徒さんみんなの墓。そういうことがきちんとあります。近ごろ流行の、合理的な合葬墓や散骨とは意味が違うのです。私の住む寺の歴代住職の墓も、祖廟にならって、みんなの墓としてご門徒に開放しました。】(二階堂行邦『自分が自分になる』160ページより)

 というのが真宗の墓の基本だと思うのだが。
 当然、これは『墓のない人生は儚い人生』なんぞという立場の人達にとっては困る話である。
 が、別に私たちには関係のない話である。従う義務なんぞ一切ない話である。
 「うちには墓がないねん。。。」とは卑下する事でなく、自慢する事である。まあ、別に自慢せんでもエエのだが、卑下する事ではない。
 だが、繰り返しになるが、困る立場の人達も出てくる。それを商売にしてはる方々にとっては困る話ではある。
 これまた繰り返しになるが、別にその人達に従う義務なんぞは一切無い。

 「これはこうでないとダメである」というのも勝手であるが、当然の事、それに従わなければならない義務は一切無い。
 「従わなければイケナイ」という意識は奴隷意識である。
 「女として料理ぐらい出来ないと」なんぞも奴隷意識であり、「男としてたくましくならないと」も奴隷意識である。主語が『女』『男』であり、個人としての『私』がない。私が選ばずに選択肢を漠然とした何かに売り渡している。単なる奴隷である。
 当然の事ながら、そんなもんに自分を売り渡す必要性は一切無い。

 法名の『釈』とは釈尊の『釈』である。仏弟子の名告りである。

【四十年も昔、ボクは代講の僧が法堂の上で、禅客の出身氏名を、バラすのを見たことがある。商であれ工であれ、行者の仲間に対して、その職業をあばくのである。もっともひどいのは、手をあげて様子をみせたりした。ああ、何たることか。(ボクは)耳をふさいで飛び出す。そこで、二つの偈をつくった。ねらいは、悪弊を攻めることだ。およそ四姓が何であれ、仏門に入って皆な釈氏とよばれるのは、乞食として生命を支え、法を学んで精神を養うためである。貴族や名門の出であることが、いったいなんだというのか。今ごろは、山林の僧堂でも、氏族の尊卑によって、人を扱っている。それをさえ、黙認せよというのなら、黙認できないものは、何もないことになるだろう。】(一休『狂雲集』より。但し現代語訳は柳田聖山)

 一休禅師の墓は宮内庁の管轄になっている。
 え~。。。多分、墓の下で暴れまくっていると思う。

常識に還る

2008年09月05日 | 坊主の家計簿
 9月5日

 諸々  タバコ5      1500円
     ラーメン       630円
     タンツー麺      680円?
     するめ        105円
     タンガクラブビール  500円
     ガンジャ      2700円
     タクシー      5120円

 合計           11235円
 9月累計         20950円

 所用で、久々のガンジャへ。別に嫌っていたわけではないのだが、三ツ寺会館の3階まで上がるのが面倒なので、御無沙汰。
 マスターの鉄人の腹が少し出てた。まあ、お互い歳やし、しゃーないのぉ。

 スタートが遅かったし、気がついたら電車がなく、タクシーで帰宅。

 で、明日からのスペシャル連載企画『常識に負けるな』
 多分、今日の気分なので、明日には忘れていると思う。
 いちいち、憶えていなければいけない義務もないし、別に奴隷でもない。
 
 え~。。。んじゃんじゃ諸々書きたいのだが、寝る。

んじゃ

2008年09月04日 | 坊主の家計簿
 9月4日
 
 諸々 パン        110円
    グリーンティ    320円
    居酒屋      3500円ぐらい

 合計          3930円
 9月累計        9715円

 所用で外出。
 仕事が忙しかったので、ろくに飯も喰わないままに飲み始めたので、ベロンベロン。&眠い。
 んじゃ。

あなたとは違うんです。

2008年09月03日 | 坊主の家計簿
 9月3日

 外食  味噌ラーメン       409円
 食類  金目鯛刺身        190円
     しらす          128円
     無添加ワイン       498円

 合計              1225円
 9月累計            5785円

 仕事が終わってワイドショーにかぶりつき状態。そのまま夕方のニュースに突入して、夕寝が変な時間に。。。いっそうの事、朝まで寝たろうと思たんだが、無理だったので23時半に目が覚める。
 よって、無添加ワインを注入中。そのうち眠たくなるやろ。

 何やら、福田氏の「あなたとは違うんです」と云う言葉が今年の流行語大賞の最有力らしい。ついでに、ネットで話題沸騰中らしい。
 え~。。。便乗しよ。

 この言葉は、福田氏の辞意表明での記者会見で語られた言葉。
【「『他人事のように』とあなたはおっしゃったけどね、私は自分自身のことは客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです」】
 らしい。

 当然の事ながら、福田氏には自分の事を客観的に見れるはずがない。まあ、『冷静に見る』事は出来るだろうが、『客観的』とはあくまでも『客観的』でしかなく、本人が自分の事を客観的に見れるはずもない。あくまでも主観の中でどれだけ冷静に見れるか、と云う事であろう。
 で、福田氏はかなり冷静な判断であったと思う。
 政治家、自民党総裁の福田氏としては、まさに最適な判断であったと思う。
 諸々のニュース報道を見ててなんだが、福田氏は、麻生氏の事をキライなのではないかと思う。「麻生氏にだけは自民党を任せたくない」みたいな感じも感じられるのだが、どうなのだろうか?まあ、政治方針も違うらしいし、麻生氏と公明党との関係でかなりムカついているとも思われるし。
 よって麻生氏への『禅譲』や、公明党との関係が取り出されている事に対して、内心、かなりほくそ笑んでいる様な気がするのだが。

 んが、この「あなたとは違う」の事で一番気になるのは『他人事』。
 え~。。。悪いが、『他人事』ではないのか?
 ある先生より、「人間は死ぬまで他人事。」みたいな言葉を聞いた事がある。別に難しい話ではない。煩悩があるから。

 先日、防災の日だったらしい。『特番?』みたいなのを見てて、「面白いなぁ」と思ったのだが、やっぱり自分は特別らしい。
 つまり、「自分だけは大丈夫」という意識があるらしい。言い換えると「私だけは死なない」か。
 当然、防災に関しては、そういう意識は危ないらしい。当り前である。大地震が起こった時に「私だけは大丈夫」は危険極まりない。だが、そんなもんらしい。
 
 これは酔っぱらいについても云える。まあ、毎日酔っぱらってブログを書いている中年に言われたくないだろうが、酔っぱらいは「大丈夫」である。
 「そんなに飲んで大丈夫?」
 「ああ、大丈夫、大丈夫」
 である。
 当然、『大丈夫』なわけがない。
 そういう場合の肝腎な事は、「自分は酔っぱらって居る」という事実を認めるか、どうかである。

 『他人事』。当然、福田氏『も』他人事なんだろう。
 質問した記者『も』他人事なんだろう。
 そして、私『も』他人事である。
 決して、福田氏だけの話ではない。

 当然、酔っぱらいには解らない。自分が酔っぱらって居るという慚愧がない限り、いや、慚愧した瞬間ぐらいだろう。自分が『他人事』にしていた、という感覚なんぞは。
 「私は、世界を無視して生きていた。。。」
 と、何かの折に慚愧した瞬間ぐらいだろう。その直後から、すべては他人事だろう。
 故に、相互批判なら構わない。
 相互批判の中で「あなたは他人事でしかない」と。
 だが、指摘した本人が「私は違う」はおかしい。

 「私は決して他人事なんかで物事を考えていない」
 とは、単なる酔っぱらいである。
 で、これが一番、危ない。
 酔っぱらいの自覚のない、酔っぱらい運転ほど、危険なものはない。

 当然、福田氏は批判されるべきである。
 だが、批判する側が、「私は決して他人事なんかで物事を考えていない」と云う事もあり得ない。
 批判する側が、批判する側『だけ』に立つ事によって、慢心してしまい、酔っぱらいの自覚が無い事が危ない。
 それは正義だ。
 正義は人間の側になんぞあり得ないし、正義の側に立場がある人なんぞは居ない。

 こんな事を書くと
 「あなたとは違うんです」という反応の声が想像出来る。

 「何を云っているんですか?高遠菜穂子様は、常にイラクの子ども達の事を私事として考えて居られ、決して他人事でなんか考えて居りません」

 「日本は侵略戦争なんかではない。アジア諸国を解放する為の戦いだったのだ」

 等々。

 『他人事』
 他人事でしか物事を考える事が出来なく、判断も出来ない。
 常に自己中心的であり、エゴの塊であり、自分の人生ですら他人事にしてしまう。エゴに支配された自分である。
 そういう在り方の中で、常に自己中心である人間存在、煩悩具足の凡夫という存在に、正義なんぞはあり得ない。
 そういう人間がやる事に『聖戦』なんぞあり得ない。

 「人の為と書いて偽りと読む」
 とは、単なる漢字の意味での言葉遊びだが、そんなもんだろう。
 常に他人事でしかあり得ない。

 福田氏は『鬼』ではない。
 福田氏の発言を『他人事』でしか考えず、「福田氏とは違う」とは、非常に解りやすい話である。
 自分は特別なのだ。それをエゴと云う。

 福田氏を叩く。
 「他人事」
 「あなたとは違う」
 等で叩く。
 だが、「では、私はどうなんだろうか?」と。「批判している私はどうなんだろうか?」と。

 自分は特別である。という意識。多分、誰にでもあるだろう。
 そして、福田氏を叩く事によって、自分は福田氏とは『違う側』であるような妄想を持つ。
 つまり『他人事』にしてしまう。
 「あなたとは違う」にしてしまう。

 同じではないのか?
 福田氏とも同じではないのか?
 それとも「あなたとは違う」と他人事にしてしまうのだろうか?

 共に生きる。
 共に生きている。
 共に生きたい。
 恐らく、そういう事があるが故に、福田氏の発言が話題になるのだろうが、ならば、福田氏の事を他人事としてだけで考えるのではなく、それこそ、福田氏の発言を通じて、自己の在り方を省みる事も大切な事ではないのか?

 福田氏を批判する権利は誰にでもあるが、福田氏を嘲笑う資格は誰にもない。
 『善』の妄想の酔っぱらい運転が一番危ない。そんな資格が人間にあるわけがない。
 あくまでも相互批判である。相互に『批判される側』でしかない。

 

総裁の葬祭

2008年09月02日 | 坊主の家計簿
 9月2日

 雑費  散髪       2000円
 外食  ラーメン      409円
 食類  ぶっかけ蕎麦     68円
     焼そば麺       28円
     枝豆        156円
     かに飯       200円
     焼きイカ      100円

 合計           2961円
 9月累計         4560円

 記者「森元総理、次の総裁は麻生太郎氏で決定ですか?」
 森氏「ああ、そうたろう」

 1年前にも使ったけど、変わらず、イマイチやなぁ。。。

 ついでなんだが、我ながら「ああ、坊主や。。。」と思ってしまったのだが、『総裁』と書こうと『そうさい』と打ち込むと『葬祭』と最初に出てくる。
 ちなみに『あいぶさき』と打ち込むと、以下自粛。

 今日は御仕事が終わって、部屋掃除。しばらくしてなかったので少しだけしっかりとする。ついでに、これまた面倒で放ったらかしにしてたシャツのアイロンがけ。散髪も行って「2学期の準備完了」みたいな感じでんな。
 よって、家事疲れもあって、ボンヤリと。

 ボンヤリ企画『総裁の葬祭』
 福田氏辞意表明に関するニュースを見ていて、当然、次の総裁候補の話になる。何やら『選挙の顔』らしい。
 選挙の顔なら小池氏がダントツだと思うのだが。
 麻生氏って、「またか。。。」っちゅう感じもある。総理の孫だったり、息子だったり。その中でも麻生氏は典型的なボンボンだと思うのだが。
 小池氏は『女性でもある』。別に『女性だから』といって特別評価をするわけでもないが、やっぱり『日本初の女性総理』っちゅう事は破壊力がある。それ以前に小池氏は強面だし。ボンボンではない怖さがあり、その怖さって政治家にとっては大切な事だと思う。ましてや、少なくとも次の選挙までは『自民党総裁=総理大臣』なんだし。ボンボンは、もうエエやん。
 私は別に自民党支持者ではない。けど、『選挙の顔』なら小池氏やろ。自民党総裁選で小池氏が麻生氏と戦い、小池氏が勝ち、その勢いで衆院選挙をすれば自民の単独過半数は大丈夫なのではないのか?
 民主・小沢氏という強面に対抗出来るのは、小沢氏以上の強面の小池氏しか居ないのではないのか?と思うのだが。まあ、「俺等ももうアカンし、最後に総理にでもなって想い出を作るか」なら別なんだろうが、民主に勝ちたいのなら小池氏だろう。

 あ、話が。。。
 『自民党の総裁=総理大臣』は、もう、エエやん。

鵺のカルト

2008年09月01日 | 坊主の家計簿
 先に8月〆
 
 一般会計          173232円
 電気代(7月分)        4851円
 水道代             5969円
 ガス代(8月分)        2884円
 国民健康保険         30200円
 医療保険            4740円
 家賃             32430円
 携帯電話            3786円
 ネット代            4410円

 合計            262502円
 これに一括払いの年金の月割り14109円をプラスすると
               276611円




 9月1日

 外食  昼めし          683円
 食類  パイン缶3        294円
     寒天ゼリー         98円
     スポーツドリンク      95円
     牛バラ          211円
     うどん玉          20円
     たまご          198円

 合計              1599円
 9月累計            1599円

 先月末から頼まれていた境内の枝きりをする。
 テレビショッピングでしか見た事のなかった『高枝斬りバサミ』を使えるのでワクワクしていたのだが、え~。。。先月末は雨が続いて、今日になったわけでんな。
 感想。『高枝斬りバサミ』は重い。
 当り前か。
 2本の梅の木だけだったのだが、結局メインに使ったのは単なる『枝斬りバサミ』であって、脚立に乗ってパッスン、パッスンと。
 これが楽しい。ハマる。むちゃ、ハマる。気分は『バカボンのパパ』に成りながら枝をパッスンパッスン斬って行く。さっさと終わろうと思ってたんだが、ハマってしまったので終わると結構エエ時間。帰りに買い物してたら、すっかり夕寝の時間を逃してしまう。

 っちゅう事で、睡眠不足でボンヤリしてます。

 昨日、旅行帰りで疲れていたのだが、意味なくネットにハマる。まあ、いわゆる『新興宗教』と呼ばれる某仏教教団に関するサイトにハマっていたのだが。
 
 ちなみに、いわゆる『新興宗教』と呼ばれる教団に関しては勧誘方法に問題があると指摘される。
 けどやなぁ。。。江戸期に「仏教教団に属さんとキリシタンと見なして殺されるぞ」という勧誘方法よりは100万倍ぐらいマシなのではないのか?
 また、「あそこはカルト宗教だ!」とは、まあ別に構わずに批判すべきであると思うのだが、別にカルト教団だろうがなんだろうが、信仰の自由は保障されとるやろ。別に本人の意志で、それが例えば『マインドコントロール』という方法だろうがなんだろうが、信仰している本人がよければ別に構わんだろうが。信仰なんぞ、そんなもんやろ。
 『教団を離れ難い』というが、逆に伝統教団の場合はどうなのだ?親戚一同が浄土真宗であって、でも、本人の意志で曹洞宗に変わった場合に、例えば「曹洞宗で葬儀・法事をしたい」と云った場合に、親戚一同はどういう態度を取るのだ?多くの場合は反対するのではないのか?「御先祖様に申しわけない」とか、「俺等の顔に泥を塗るつもりか!」なんぞの理由で。
 いわゆる『新興宗教』に対する偏見の裏には既得権益を保守する事が多いのではないのか?
 で、そういう『意志』『思想』そのものは仏教から大きく離れていると考えるのだが。

 ただ、当然の如く、いわゆる『新興宗教』を信仰しておられる方々の中にも問題がある場合もある。多々ある。
 例えば、ある先輩は、ある教団の事をネットで批判した事がある。その事に対して先輩の所に批判が来たらしい。相互批判はバンバンやればイイ。だが、その後が酷い。その教団を信仰しておられる人が、先輩とのメールでのやり取りをネットにアップしたのだ。
 メールは私信である。当然、『公開』なんぞを前提にしていない。それを勝手にネット上にアップする権利を「持っている」という発想方法は『カルト』そのものであって、その人のカルト性を全世界に公開している様なものだ。

 昨日、最後辺りに見たのは『異安心のルール』みたいなもの。暇になればアラシに行きたいのだが、そこまで暇ではない。ただ、どこの教団に属して居られるのか、または幾つかの教団の方々が書き込まれて居るのかも知れないが、「そんなもん、勝手に決めるなよ(笑)」という事である。まあ、カルト性、バリバリなわけでんな。

 ちなみに『異安心』とは、文字の通りに『安心が異なる』という事である。まあ、『信仰が異なる』みたいなもん。
 多分、真宗系教団では、今もあるのかも知れない。
 何故「今もあるのかも知れない。」と書いたかというと、大谷派では歴史的には聞いた言葉であるが、今は聞かないし。
 
 例えば、今の大谷派の『教学研究所』という所のトップは、一部の人達に評判が悪い。
 だが、『教学研究所』のトップである。
 その『評判が悪い』のも、決して陰口でなく、結構、公の所で発言して居られる。徹底批判して居られる。
 また、『先生同士』の間でも、『教え』について批判しておられる。
 ある意味、下っ端の僧侶が、トップの大先生について平気で批判出来るムードが大谷派教団にはあり、故に、ついでに云うと『サンガ論』が盛んだったりもするし。
 そんな教団に『異安心』という言葉は、死語に近い感覚であり、もし生きているのであれば、教団の教えに反する事を、つまり、教団主導の教えについて批判したりすると『異安心』等と云われるのだろうが、幸いな事に、今の所はない。あくまでも、相互批判が基本なんだろうし、相互批判出来る『場』が素晴らしい。

 仏教といっても、多々ある。多々の教団があり、多々の流れがある。
 原始仏教を学ばれている人達は「釈尊は念仏申せなどと云っていない」というが、それは歴史の無視である。密教でも仏教であると私は思う。密教だけが仏教であるとは思わんが、密教も仏教である。密教に対する『流れ』があったのであろう。

 当然、同じ真宗教団と云えども、歴史、流れが違えば、教えの内容も変わってくる。当り前である。受け継いでっ来た人達が違うのだから。違って当然である。同じ仏教教団であっても、それぞれの流れがあり、その正解が原始仏典にないのと同じである。

 故に、当り前の事なんだが、違う教団の教えは、違って当り前なのだ。当然、『違う』が故に『間違っている』と思うのかも知れないが、そんなもん、誰に判断が出来る。唯一、出来るとするならば、それは『本人』でしかない。信仰して居られる本人でしかない。
 信仰して居られる本人が「この教団の教えは間違っているのではないか?」と、判断すればイイだけの話である。
 
 例えば、念仏申すと無間地獄に堕ちる、という教えの教団もある。まあ、日蓮系なんだが。そんなもん、選ぶのは信仰している本人でしかあり得ない。
 それだけの話でしかない。
 それを無理矢理押し付ける人は、
【一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。】(釈尊)
 でも、読めばイイだけの話である。

 どんな人でも、どんな信仰を持たれていても、自由である。

 しゃて、自民党の憲法20条に関する改憲案

【国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教的活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉となるようなものを行ってはならない。】

 であるが、私には『社会的儀礼』や『習俗』という名の隠れ蓑でもっての『宗教教育』や『宗教活動』に、たとえ仏教が、真宗仏教が使われても反対である。
 宗教は、習俗ではない。伝統教団の葬儀であろうが、仏事であっても、神社であっても、宗教でしかない。
 伝統仏教も習俗ではなく、宗教であり、いわゆる『新興宗教』だけが宗教なのではない。

 「うちの家は○○宗」でなく、「私の信仰は」だろうが。
 当然、無ければ無くても構わないし、無いのならそれを通せばイイ。
 気がついたら、特定の宗教と国家が密着してたらどうしまんねん。特定の宗教以外の宗教を『間違っている』とカルト臭く云うのか?