9月3日
外食 味噌ラーメン 409円
食類 金目鯛刺身 190円
しらす 128円
無添加ワイン 498円
合計 1225円
9月累計 5785円
仕事が終わってワイドショーにかぶりつき状態。そのまま夕方のニュースに突入して、夕寝が変な時間に。。。いっそうの事、朝まで寝たろうと思たんだが、無理だったので23時半に目が覚める。
よって、無添加ワインを注入中。そのうち眠たくなるやろ。
何やら、福田氏の「あなたとは違うんです」と云う言葉が今年の流行語大賞の最有力らしい。ついでに、ネットで話題沸騰中らしい。
え~。。。便乗しよ。
この言葉は、福田氏の辞意表明での記者会見で語られた言葉。
【「『他人事のように』とあなたはおっしゃったけどね、私は自分自身のことは客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです」】
らしい。
当然の事ながら、福田氏には自分の事を客観的に見れるはずがない。まあ、『冷静に見る』事は出来るだろうが、『客観的』とはあくまでも『客観的』でしかなく、本人が自分の事を客観的に見れるはずもない。あくまでも主観の中でどれだけ冷静に見れるか、と云う事であろう。
で、福田氏はかなり冷静な判断であったと思う。
政治家、自民党総裁の福田氏としては、まさに最適な判断であったと思う。
諸々のニュース報道を見ててなんだが、福田氏は、麻生氏の事をキライなのではないかと思う。「麻生氏にだけは自民党を任せたくない」みたいな感じも感じられるのだが、どうなのだろうか?まあ、政治方針も違うらしいし、麻生氏と公明党との関係でかなりムカついているとも思われるし。
よって麻生氏への『禅譲』や、公明党との関係が取り出されている事に対して、内心、かなりほくそ笑んでいる様な気がするのだが。
んが、この「あなたとは違う」の事で一番気になるのは『他人事』。
え~。。。悪いが、『他人事』ではないのか?
ある先生より、「人間は死ぬまで他人事。」みたいな言葉を聞いた事がある。別に難しい話ではない。煩悩があるから。
先日、防災の日だったらしい。『特番?』みたいなのを見てて、「面白いなぁ」と思ったのだが、やっぱり自分は特別らしい。
つまり、「自分だけは大丈夫」という意識があるらしい。言い換えると「私だけは死なない」か。
当然、防災に関しては、そういう意識は危ないらしい。当り前である。大地震が起こった時に「私だけは大丈夫」は危険極まりない。だが、そんなもんらしい。
これは酔っぱらいについても云える。まあ、毎日酔っぱらってブログを書いている中年に言われたくないだろうが、酔っぱらいは「大丈夫」である。
「そんなに飲んで大丈夫?」
「ああ、大丈夫、大丈夫」
である。
当然、『大丈夫』なわけがない。
そういう場合の肝腎な事は、「自分は酔っぱらって居る」という事実を認めるか、どうかである。
『他人事』。当然、福田氏『も』他人事なんだろう。
質問した記者『も』他人事なんだろう。
そして、私『も』他人事である。
決して、福田氏だけの話ではない。
当然、酔っぱらいには解らない。自分が酔っぱらって居るという慚愧がない限り、いや、慚愧した瞬間ぐらいだろう。自分が『他人事』にしていた、という感覚なんぞは。
「私は、世界を無視して生きていた。。。」
と、何かの折に慚愧した瞬間ぐらいだろう。その直後から、すべては他人事だろう。
故に、相互批判なら構わない。
相互批判の中で「あなたは他人事でしかない」と。
だが、指摘した本人が「私は違う」はおかしい。
「私は決して他人事なんかで物事を考えていない」
とは、単なる酔っぱらいである。
で、これが一番、危ない。
酔っぱらいの自覚のない、酔っぱらい運転ほど、危険なものはない。
当然、福田氏は批判されるべきである。
だが、批判する側が、「私は決して他人事なんかで物事を考えていない」と云う事もあり得ない。
批判する側が、批判する側『だけ』に立つ事によって、慢心してしまい、酔っぱらいの自覚が無い事が危ない。
それは正義だ。
正義は人間の側になんぞあり得ないし、正義の側に立場がある人なんぞは居ない。
こんな事を書くと
「あなたとは違うんです」という反応の声が想像出来る。
「何を云っているんですか?高遠菜穂子様は、常にイラクの子ども達の事を私事として考えて居られ、決して他人事でなんか考えて居りません」
「日本は侵略戦争なんかではない。アジア諸国を解放する為の戦いだったのだ」
等々。
『他人事』
他人事でしか物事を考える事が出来なく、判断も出来ない。
常に自己中心的であり、エゴの塊であり、自分の人生ですら他人事にしてしまう。エゴに支配された自分である。
そういう在り方の中で、常に自己中心である人間存在、煩悩具足の凡夫という存在に、正義なんぞはあり得ない。
そういう人間がやる事に『聖戦』なんぞあり得ない。
「人の為と書いて偽りと読む」
とは、単なる漢字の意味での言葉遊びだが、そんなもんだろう。
常に他人事でしかあり得ない。
福田氏は『鬼』ではない。
福田氏の発言を『他人事』でしか考えず、「福田氏とは違う」とは、非常に解りやすい話である。
自分は特別なのだ。それをエゴと云う。
福田氏を叩く。
「他人事」
「あなたとは違う」
等で叩く。
だが、「では、私はどうなんだろうか?」と。「批判している私はどうなんだろうか?」と。
自分は特別である。という意識。多分、誰にでもあるだろう。
そして、福田氏を叩く事によって、自分は福田氏とは『違う側』であるような妄想を持つ。
つまり『他人事』にしてしまう。
「あなたとは違う」にしてしまう。
同じではないのか?
福田氏とも同じではないのか?
それとも「あなたとは違う」と他人事にしてしまうのだろうか?
共に生きる。
共に生きている。
共に生きたい。
恐らく、そういう事があるが故に、福田氏の発言が話題になるのだろうが、ならば、福田氏の事を他人事としてだけで考えるのではなく、それこそ、福田氏の発言を通じて、自己の在り方を省みる事も大切な事ではないのか?
福田氏を批判する権利は誰にでもあるが、福田氏を嘲笑う資格は誰にもない。
『善』の妄想の酔っぱらい運転が一番危ない。そんな資格が人間にあるわけがない。
あくまでも相互批判である。相互に『批判される側』でしかない。