坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

鵺のカルト

2008年09月01日 | 坊主の家計簿
 先に8月〆
 
 一般会計          173232円
 電気代(7月分)        4851円
 水道代             5969円
 ガス代(8月分)        2884円
 国民健康保険         30200円
 医療保険            4740円
 家賃             32430円
 携帯電話            3786円
 ネット代            4410円

 合計            262502円
 これに一括払いの年金の月割り14109円をプラスすると
               276611円




 9月1日

 外食  昼めし          683円
 食類  パイン缶3        294円
     寒天ゼリー         98円
     スポーツドリンク      95円
     牛バラ          211円
     うどん玉          20円
     たまご          198円

 合計              1599円
 9月累計            1599円

 先月末から頼まれていた境内の枝きりをする。
 テレビショッピングでしか見た事のなかった『高枝斬りバサミ』を使えるのでワクワクしていたのだが、え~。。。先月末は雨が続いて、今日になったわけでんな。
 感想。『高枝斬りバサミ』は重い。
 当り前か。
 2本の梅の木だけだったのだが、結局メインに使ったのは単なる『枝斬りバサミ』であって、脚立に乗ってパッスン、パッスンと。
 これが楽しい。ハマる。むちゃ、ハマる。気分は『バカボンのパパ』に成りながら枝をパッスンパッスン斬って行く。さっさと終わろうと思ってたんだが、ハマってしまったので終わると結構エエ時間。帰りに買い物してたら、すっかり夕寝の時間を逃してしまう。

 っちゅう事で、睡眠不足でボンヤリしてます。

 昨日、旅行帰りで疲れていたのだが、意味なくネットにハマる。まあ、いわゆる『新興宗教』と呼ばれる某仏教教団に関するサイトにハマっていたのだが。
 
 ちなみに、いわゆる『新興宗教』と呼ばれる教団に関しては勧誘方法に問題があると指摘される。
 けどやなぁ。。。江戸期に「仏教教団に属さんとキリシタンと見なして殺されるぞ」という勧誘方法よりは100万倍ぐらいマシなのではないのか?
 また、「あそこはカルト宗教だ!」とは、まあ別に構わずに批判すべきであると思うのだが、別にカルト教団だろうがなんだろうが、信仰の自由は保障されとるやろ。別に本人の意志で、それが例えば『マインドコントロール』という方法だろうがなんだろうが、信仰している本人がよければ別に構わんだろうが。信仰なんぞ、そんなもんやろ。
 『教団を離れ難い』というが、逆に伝統教団の場合はどうなのだ?親戚一同が浄土真宗であって、でも、本人の意志で曹洞宗に変わった場合に、例えば「曹洞宗で葬儀・法事をしたい」と云った場合に、親戚一同はどういう態度を取るのだ?多くの場合は反対するのではないのか?「御先祖様に申しわけない」とか、「俺等の顔に泥を塗るつもりか!」なんぞの理由で。
 いわゆる『新興宗教』に対する偏見の裏には既得権益を保守する事が多いのではないのか?
 で、そういう『意志』『思想』そのものは仏教から大きく離れていると考えるのだが。

 ただ、当然の如く、いわゆる『新興宗教』を信仰しておられる方々の中にも問題がある場合もある。多々ある。
 例えば、ある先輩は、ある教団の事をネットで批判した事がある。その事に対して先輩の所に批判が来たらしい。相互批判はバンバンやればイイ。だが、その後が酷い。その教団を信仰しておられる人が、先輩とのメールでのやり取りをネットにアップしたのだ。
 メールは私信である。当然、『公開』なんぞを前提にしていない。それを勝手にネット上にアップする権利を「持っている」という発想方法は『カルト』そのものであって、その人のカルト性を全世界に公開している様なものだ。

 昨日、最後辺りに見たのは『異安心のルール』みたいなもの。暇になればアラシに行きたいのだが、そこまで暇ではない。ただ、どこの教団に属して居られるのか、または幾つかの教団の方々が書き込まれて居るのかも知れないが、「そんなもん、勝手に決めるなよ(笑)」という事である。まあ、カルト性、バリバリなわけでんな。

 ちなみに『異安心』とは、文字の通りに『安心が異なる』という事である。まあ、『信仰が異なる』みたいなもん。
 多分、真宗系教団では、今もあるのかも知れない。
 何故「今もあるのかも知れない。」と書いたかというと、大谷派では歴史的には聞いた言葉であるが、今は聞かないし。
 
 例えば、今の大谷派の『教学研究所』という所のトップは、一部の人達に評判が悪い。
 だが、『教学研究所』のトップである。
 その『評判が悪い』のも、決して陰口でなく、結構、公の所で発言して居られる。徹底批判して居られる。
 また、『先生同士』の間でも、『教え』について批判しておられる。
 ある意味、下っ端の僧侶が、トップの大先生について平気で批判出来るムードが大谷派教団にはあり、故に、ついでに云うと『サンガ論』が盛んだったりもするし。
 そんな教団に『異安心』という言葉は、死語に近い感覚であり、もし生きているのであれば、教団の教えに反する事を、つまり、教団主導の教えについて批判したりすると『異安心』等と云われるのだろうが、幸いな事に、今の所はない。あくまでも、相互批判が基本なんだろうし、相互批判出来る『場』が素晴らしい。

 仏教といっても、多々ある。多々の教団があり、多々の流れがある。
 原始仏教を学ばれている人達は「釈尊は念仏申せなどと云っていない」というが、それは歴史の無視である。密教でも仏教であると私は思う。密教だけが仏教であるとは思わんが、密教も仏教である。密教に対する『流れ』があったのであろう。

 当然、同じ真宗教団と云えども、歴史、流れが違えば、教えの内容も変わってくる。当り前である。受け継いでっ来た人達が違うのだから。違って当然である。同じ仏教教団であっても、それぞれの流れがあり、その正解が原始仏典にないのと同じである。

 故に、当り前の事なんだが、違う教団の教えは、違って当り前なのだ。当然、『違う』が故に『間違っている』と思うのかも知れないが、そんなもん、誰に判断が出来る。唯一、出来るとするならば、それは『本人』でしかない。信仰して居られる本人でしかない。
 信仰して居られる本人が「この教団の教えは間違っているのではないか?」と、判断すればイイだけの話である。
 
 例えば、念仏申すと無間地獄に堕ちる、という教えの教団もある。まあ、日蓮系なんだが。そんなもん、選ぶのは信仰している本人でしかあり得ない。
 それだけの話でしかない。
 それを無理矢理押し付ける人は、
【一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。】(釈尊)
 でも、読めばイイだけの話である。

 どんな人でも、どんな信仰を持たれていても、自由である。

 しゃて、自民党の憲法20条に関する改憲案

【国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教的活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉となるようなものを行ってはならない。】

 であるが、私には『社会的儀礼』や『習俗』という名の隠れ蓑でもっての『宗教教育』や『宗教活動』に、たとえ仏教が、真宗仏教が使われても反対である。
 宗教は、習俗ではない。伝統教団の葬儀であろうが、仏事であっても、神社であっても、宗教でしかない。
 伝統仏教も習俗ではなく、宗教であり、いわゆる『新興宗教』だけが宗教なのではない。

 「うちの家は○○宗」でなく、「私の信仰は」だろうが。
 当然、無ければ無くても構わないし、無いのならそれを通せばイイ。
 気がついたら、特定の宗教と国家が密着してたらどうしまんねん。特定の宗教以外の宗教を『間違っている』とカルト臭く云うのか?