坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

アイ・アム・フルチン!

2008年09月21日 | 坊主の家計簿
 9月21日

 外食  焼肉ビール       1950円
 雑費  黒霧島         1580円
     レンタル         280円

 合計              3810円
 9月累計          114635円

 レンタルは『うた魂』
 素晴らしいぞ。素晴らしいぞ。阪神が巨人に3連敗して単独首位でなくなっても素晴らしいぞ。

 しゃて、歎異抄という書物がある。真宗仏教ではスタンダードに読まれている書物だと思うし、特に大谷派では非常に親しみのある書物である。門徒も、僧侶も、みなが『歎異抄』を通じて真宗仏教を学ぶ。そういう書物である。ある意味、っちゅうか、間違いなく、親鸞が書かれた書物よりも多く読まれている。何やらテレビで『男たちの大和』やったけな?そんなのがやってたが、学徒動員された人達にも愛読されていた書物でもある。
 歎異抄を書かれた人物、とされているのは唯円という人になっている。実際の所はよく解らん。一応、「まあ、唯円だろう」と云う事になっている。
 この『唯円』なんだが、『唯円』という、如何にも僧侶チックな名前なので『僧侶』と思われている人も多く居るのだろうが、僧侶ではない、はずである。唯円が出家得度した話なんぞは聞いた事がない。
 親鸞の他の直弟子には『元々僧侶』だった人も居てたはずであるが、唯円はそうではない。単なる親鸞の直弟子であり、つまり『真宗門徒』でしかない。
 当り前の話である。関東での親鸞は、流罪は許されたとは云え、出家・得度をさす権利なんぞを持ち得ていなかったし、また、『無戒名字の比丘』を標榜する親鸞が、『ただ念仏』の親鸞が、「他宗派で得度して来い」等と勧めるわけがないし、また、原始親鸞教団において、そんな事が問題になっていたとは思えない。つまり、『僧侶』である『在家』である、等が問題になり得る余地が『ただ念仏』の中に入り込む隙間がない。行として念仏しか選ばなかったが故に、『僧侶』でも『在家』でも一緒に出来る行しか選ばなかったのだから。
 真宗仏教は『在家仏教』ではない。『僧侶』『在家』との区別がない教団なのだ。多分、世界的に非常に珍しい、オリジナルの教団なのだ。そして、これが真宗教団の特徴でもある。

【ある紙面に、「一兆一千億円市場の全貌」として、宗教を巨大ビジネスとする記事があった。そこには、信者の区分、墓石、墓地の現状等を出版社独自の集計をもとに宗教ビジネスというものを営利の対象のみとして表現されていた。
 このことは、宗教界全体の宗教的精神の希薄化と宗教の単なる儀礼化を指摘しているのかも知れない。】

 上記の文は『真宗』という、恐らく真宗大谷派の全寺院に発送されている機関紙の2008年5月号に書いてあった言葉である。目次の次のページ、つまり、記事としては冒頭にあたる、毎月『樹心佛地』として書かれてある記事の中にあった冒頭の言葉である。

 『僧侶』も『在家』も、クソもないのが真宗教団の特徴である。
 『在家』、つまり『檀家』である。
 『門徒』と『檀家』は違う。『門徒』は僧侶も檀家もない世界である。檀家は僧侶と檀家が別れているが故に『檀家』なのである。
 故に、『僧侶』と『門徒』が区別されている事は、本来、あってはならない事である。共に、単なる『門徒』なのである。

 唯円は恐らくインテリであったと考えられる。まあ、単純に文字が読み書き出来たからだけなんだが。ひょっとしたら、そこから唯円を中心とする門徒集団があったのかも知れない。まあ、小さなサークルだろうが、インテリ唯円から真宗仏教の教えを聞いた方々が居られた事だろうと思う。まあ、唯円はともかくとして、そういう門徒集団が多くあったみたいだし。
 だが、それでも『共に門徒』であったと思われる。

 今の大谷派のトップ(?)は、門首という。『門徒の首座』である。
 つまり、現状では大谷家の血筋の方だが、それでも『門徒』でしかない。

 そんな『門徒集団』である真宗教団には合唱がある。まあ、『合唱』っちゅうたら多少の違和感があるのだが、まあ、『声明』なんだが、門徒集団での声明であり、合唱みたいなもんである。
 何やら2011年の親鸞聖人七百五十回御遠忌では、難しい声明を捨てて、門徒集団で共に合唱出来る形式に変えるらしい。ん?漢字が変か。『変える』でなく『還る』の方が適切なんだろう。

 映画『うた魂』では、主人公の夏帆ちゃんは自意識過剰な女の子。でも、ある時に自意識過剰であるが故に、心傷つく事があった。その事で、大好きな歌を、合唱を辞めてしまう。
 そんな時に、ある人達に出会う。合唱する事が好きで好きでたまらない人達に。
 「アイ・アム・フルチン!」と。
 夏帆ちゃんはフルチンを恥ずかしがっていた。でも、その人達に出会う事によって、夏帆ちゃんも「アイ・アム・フルチン!」と叫ぶ。周囲からカッコ悪いと見られようがなんだろうが、『歌う』事の楽しさ、合唱する事の素晴らしさに立ち返る事が出来た。

 真宗教団は多分、他の宗派からしたら変であるだろう。上座部仏教の人達からすると、「真宗は仏教ではない」
と云われているのかも知れないし、インテリ仏教学者もそういうだろう。
 なんせ、『出家(僧侶)』と『在家(檀家)』の区別がない教団なんだから。
 でも、それが故に、共に合唱出来る。
 つまり、僧侶が読経するだけでなく、門徒集団での合唱が出来る。
 2011年に本山、つまり『真宗本廟』で行われる御遠忌というビックなイベント、っちゅうか法要は、同朋唱和で行われる。
 恐らく、他の宗派での大きな法要は、僧侶が読経する形なんだろうが、真宗教団、っちゅうか、他の教団は知らないが、大谷派では同朋唱和で行われる。つまり、堂内に居ている人達が『僧侶の読経を聞くだけ』でなく、共に合唱するのだ。門徒集団として合唱するのだ。
 変もクソもない。それが真宗教団なのだから。
 他宗のマネをする。つまり『仏教教団らしく』であったり、『僧侶らしく』を目指すのはチャンチャラおかしい。そんなものは
 
 【宗教的精神の希薄化と宗教の単なる儀礼化】(『真宗』2008年5月号4ページより)
 
 にしか過ぎない。