坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

ジェリービーンズ

2008年09月18日 | 坊主の家計簿
 9月18日

 食類  イカゲソ        100円
     鮭ほぐし        100円

 合計              200円
 9月累計         108659円

 3ヶ月間放ったらかしだった月末の家計簿を付ける。え~。。。この3ヶ月間、如何に「ボケ~」っとし、サボりまくって居たかがよく解る。
 ついでなんだが、原チャリの強制保険も放ったらかしになってて、慌てて保険登録の証書を探し出す。近々に行って来な。
 ついでなんだが、府民・市民税も9月1日期限だったのね。これも近々に行って来な。

 とは云え、今日もボケ~、っと過ごす。仕事が終わってから緊張感がないのだ。頭が重く、「なんかしんどい」状態である。まあ、んな時期なんだろう。攻めてもしゃーないけど、やらなあかん事ぐらいはやっとかな。

 っちゅうても、『やらなあかん事』が以外となかったりもするのだが。この場合『緊急に』と前提がつくのだが。
 とりあえず、仕事はせんとアカン。メシ喰われへんし。
 メシも喰わんとアカン。んが、サボリ気味で自炊の量が減って来たり、最近野菜不足なんだが、これは青汁とサプリメントでカバー。んが、今日は食物繊維が足らんか。
 あとは洗濯ぐらいなもん。

 人生の中でやらなアカン事。

 なんか、ちょっくら雑用をかましながらだったのだが、人類滅亡番組を少し見てた。
 『緊急検証!世紀の大予言スペシャル~人類滅亡7の警告~』とか云うらしい。
 こういう番組を見てたら毎度思うのだが、100年経ったら殆どの人は死んでる、っちゅうねん。
 あと、『人類滅亡』っちゅうよりも、殆どのケースは『今までの生活が出来ひん』ぐらいなもんやろ。なんちゅうんですか?『現代文明』とでも云うのか?
 「資源がなくなるぞ!」って、あーた。資源がなくなったら、なくなったなりに生活せんとしゃーないやんけ。当然、資源をある特定の国々の人達しか使う事が出来なければ、それはそれで問題だが、今もそうやんけ。未来永劫に『現代文明』のマンマで、豊かな生活が満喫出来る事だけが『明るい未来』とは、ちょっと寂しい話や。
 まあ、予言はともかくとして、地球だって『星』なんだから、いつかは滅ぶのだろう。変化しないもんなんてないわけやし。
 んが、まあ、出来れば「ここままであって欲しい」っちゅう欲もある。んが、そんなもんは『欲』以外の何ものでもない。

 何やら、米騒動らしい。しかも大阪の企業が発端らしい。あの『汚染米』っちゅうのか?一連の報道を見ていると、なんかジェリービーンズを思い出す。あの着色料いっぱいのアメリカからやって来たお菓子。
 どうでもエエのだが、日本はよくジェリービーンズを食べるような国と戦争したな。当時でも日本からアメリカに行ったヤツは居てるだろう。で、ジェリービーンズを食べた日本人も居ただろう。で、日本に土産で持ち帰って「アメリカとだけは絶対に戦争をしたらダメです。あいつらこんなもん食べてやがるんでっせ」と。
 「おお!なんちゅうもんを食べてるヤツ等や。あいつ等は危険や。何をしだすか解らんぞ。」
 とはならなかったのか?

 とは云え、今は、っちゅうか、当時から人口着色料があったのかも知らんが、日本だってジェリービーンズもあるし、ジェリービーンズに負けず劣らずの危険な食べ物がいっぱいある。今でも多分、アマゾンの奥地に居てるヤツにジェリービーンズを差し出し、自分も食べたりすると、とりあえず無条件降伏ぐらいしてくれると思うぞ。
 「こいつ等は食べ物に無茶苦茶しやがる。こんな連中と戦争したらアカン。何をしだすか解らん」
 と、現地の長老会議で話される事、間違いなしやで。

 『食べ物』と書いたりする。つまり『モノ』だ。
 人間のモノ化は奴隷制度だったりするのだろうが、同じやな。
 『モノ』を『奴隷』として、つまり、『利用するべきモノ』として扱っているから『食べ物』であり、『モノ』なんだろう。

 昼休憩の時にテレビを見てたら、まあ、毎度のプチグルメ番組なんだろうが、「このピーマン、甘いですね」と。そのうちに苦瓜も甘くなるのかも知れんのぉ。。。苦瓜は苦くてナンボのもんだと思うのだが。甘いものが欲しけりゃ、何にでも砂糖をぶっかけて食べとけ。

 食べ物は商品になった。まあ、『食べ物』として『モノ』になっているわけだから、そのマンマなんだろうが、商品になり、金儲けの道具になった。

 テレビドラマ『おせん』。
 ああ、ついに蒼井優ちゃんの話題に触れなければならない時が。。。岡田某かなんか知らんが、テメーは単なる『アイドル』であり、蒼井優ちゃんは『名女優』である。つまり、価値が違うのだ、価値が。100年後に名前の残る蒼井優ちゃんと比べて、岡田某は10年後に名前が残って居るのか?人間としての価値が違う。そんな岡田某が蒼井優ちゃんと付き合える事は本来身分の差で国家が許してはならない事なんだが、今の自民党政府はボンクラなので付き合いを黙認しているみたいだが、本来はあってはならないのだ。
 っちゅう事は全くなく、単に人間同士だし、別にエエのだろう。

 テレビドラマ『おせん』では、蒼井優ちゃん演じる『おせん』は、食べ物を『○○さん』と呼んでいた。まあ、「お米さん」とか。そして、その『食べ物』が粗末にされると「可哀相」と。
 料理を作る時も「おいしくなあれ、おいしくなあれ」である。
 こういう感覚は、まあ、食べ物は『食べ物』なのかも知らんが、でも、『モノ』でなく、『商品』でなく、『○○さん』である。

 自分中心に生きている。自分中心にしか生きれない。
 言い換えると、人間中心でしかない。この一点に置いては私はヒューマニズムはキライである。
 んが、当然、差別は問題であり、人間の『モノ化』、つまり、奴隷化にも反対である。
 同じく、食べ物を、つまり『同じ価値を持ついのちの死骸』を『食べ物』と『モノ』とする事にも反対である。ブロイラーなんぞが典型なんだろうが、商品であり、商品であるが故に、効率でしかない。
 商品であり、金儲けの問題であるが故に、汚染米でも流通させる。

 とはいえ、そういう状況にしか生きていない。食べ物を『食べ物』『モノ』としてしか扱っていない現実の生活がある。
 美味しいものを食べたいし、カロリーの低い食べ物が流行る様に、お腹一杯食べたい。毎日食べたい。ダイエットしてでも食べたい。
 贅沢したい。欲望は満たしたい。出来ればこの文明が永劫に続いて貰いたい。
 だから、人類が滅亡するのはイヤ。

 『死ぬのはイヤ』
 なんだが、『思いが適わない』と死にたくなる。当り前である。『思い』を中心に、『思い』を『私』として生きているのだから、思いが適わない事があると死にたくなるのは当然である。死にたくないのは単に、今の生活が思い通りに行っているからに過ぎないのではないのか?タマタマ、思いに適う生活があるが故に、死にたいと思わないだけではないのか?
 当然、『死にたい』と思った後に、「あ、変わらずに自我中心で生きとるのぉ。。。」と、仏教者なら信仰に立ち返る事が出来るのだろうが、悟りでも開かん限りは『思いが適わん』と死にたくなるのではないのか?
 ちなみに『自殺』は『殺』である。つまり、自分の周囲の環境を整える為に、相手を殺すのか、それとも自分を殺すのかの違いだろう。
 欲望を満たす為に生きている、つまり『煩悩具足の凡夫』である事には変わりはない。

 汚染米を売りさばくのも、多分、経済的な問題からだったのだろう。金儲けをして、生活をせんとアカンわけやし。それが彼らの仕事なわけなんだし。
 けど、欲望は欲望でしかない。
 その欲望の為に、周囲の人達を『モノ化』しているのは、恐らく、全ての人達と変わりない。

 だから、問題である。
 蒼井優ちゃんを見習おう。格下の岡田某ですら『対等な人間である』として見る眼を持つ蒼井優ちゃんを見習おう。
 ん?なんか個人的な怨みがかなり混じっているなぁ。。。

 テレビドラマ『おせん』では、「お米さん」である。
 確かに、食べ物ではあるし、食べ物なんだが、それだけではない。やっぱし、『お米さん』である。

 汚染米は、ジェリービーンズを作る際の原材料としては相応しいのかも知れない。あのワケの解らん食べ物、多分、甘いもの好きのグルメリポーター、単純な舌を持つ、なんでも「これって、甘いですね」とピーマンですら美味しいという褒め言葉に「甘い」を使うような、甘ったれた、多分、『優しくなりたい症候群』の環境で育てられた甘いもの好きの人達にはピッタリなのかも知らん。
 ジェリービーンズを食べて、「ほらほら、見てよ。私って、こんなに色きらびやかなのよ」と。「私って、ジェリービーンズみたいに甘い人間なのよ。とても優しいわよ」と。

 優しくなくとも、苦くても、辛くても、なんの味がしようが、それはその人の味でしかない。
 地球上に60億人居れば、60億の味がある。
 みんな『優しく』なれば、一つの味でしかない。そんな社会は味気ないに決まっとる。まあ、なんでも「甘い」という、『甘い=美味しい』にはピッタリなんだろうし、『優しい=優れている』と同じなんだろう。
 『優しい=優れている』が故に、『優しくなりたい症候群』が流行中なんだろうが、銃後の母か?
 当然、『強い=優れている』も下らん。価値観の統一程、下らん、いや、『下らん』だけでは済まされない問題なのだが、危ない事はない。

 欲望、自我中心。
 私が価値観の中で高得点を出すが故に『私を私として認めれる』のが娑婆世間の価値観にどっぷりハマっている私なんだろう。
 そして、それは『どんなあなたでも』という声とは違う。正反対。
 死にたくなる様な、全く世間的価値観の中で『思い通り』に行かない私でさえも、『どんなあなたでも』である。
 必然的にそれは、私の『思い』中心の発想での他者に対しても同じである。
 後は、『味』が違うだけ。優劣はない。あるのは好きキライだけの話。個人の限界、だけの話。