エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

秋を拾う

2013年09月25日 | ポエム
今日は夜来の雨が止まず、しとしとと降り続いている。
「秋黴雨(アキツイリ)」だ。

昨日は、秋を拾った。
その秋を紹介しよう、と思うのである。
皆さんも、秋を拾いに出かけたら面白い。
楽しい仕儀である。



先ずは「松ぽっくり」である。
大きな、立派な松ぽっくりである。



こんなように落ちていた。
オーナメント作りには、充分な大きさである。



次いで、ドングリ。
くぬぎのドングリである。

まん丸い。
実は、このドングリで「トトロ」を作るのである。



ぼくの長女の作ったものである。
こうした工作の好きな娘である。

小さくて、細長いドングリもある。
それは例えば「マテバシイ」のドングリである。



最後は、辛夷の赤い実。
これだけ色づけば綺麗である。

拳(コブシ)の形の莢が割れて、実生が表に出てくる。
秋・・・赤く色づくのである。





「ドングリのころころ落ちる薄暮かな」







見上げれば、秋の雲が渦巻いていた。
丁度真中あたりの一つの点。
飛行機である。



       荒 野人

白水引

2013年09月24日 | ポエム
水引は赤い、と誰が言ったのか。
白い水引は、実に謙虚であって清々しい。



昨日は白秋を探す心の旅路であった。
今日も引き続き、白秋の旅路である。







「白水引心の弥縫ふれもせず」







彼岸花が一面白いと、不思議である。
そもそも彼岸花は、この世とあの世を繋ぐ花であるとされている。



ここまで白が咲き揃うと、そこはあたかもブラック・ホールであって、あの世への入り口に思えてしまう。
そう、この場所に彼岸があるかのように思えるのだ。



水引は、祝儀袋に多用されるし結納の品々にとってはなくてはならない物である。
水引の白は、誰が不祝儀だと言ったのか。

清々しいではないか。



彼岸花もまた、厳正に現身として咲き誇るのであろう。
それも良い。



ぼくは大好きである。



         荒 野人

白き秋

2013年09月23日 | ポエム
白い秋がある。
北原白秋・・・「ペンネーム」の見本である。

白秋は「三秋」の季語である。

いま、世間は白で大騒ぎ。
美白が、そのキーワードである。
美白などという、幻想は不要だと云うのにである。

そもそも、日本人は黄色の人種である。
アメリカ人だって有色人種である。
白人などという幻想は、持ってはいけないのである。

日本人の肌は美しい。
白磁のように、内面から輝く。

白人と言えるのは、白系ロシアの人々である。
日本人が白いとしたら、突然変異である。
自然界の白は、基本的に突然変異による・・・と考えてよろしい!



ところで、昨日は久しぶりに暑かった。
空には、もくもくと積乱雲。



これまた、白である。



白いコスモス。
風に揺れていた。



白式部の小玉は可憐である。



白萩の花。
これまた、ほろほろと零れる。
その零れる様が良い。







「白き秋ほろほろ零しなお白し」








白の彼岸花。
これも突然変異で生まれた白である。

彼岸花、花言葉は「再会」である。

いまの街の中には、白い秋がある。
再会の旅を始めようではないか!

何気ない植え込みに気付く時、自然はぼくに微笑んでくれるのだ。




        荒 野人

秋見っけ!

2013年09月22日 | ポエム
今日も今日とて、涼しい。
樹が付けば、掛け布団をしっかりかけている朝。

夜は寒いくらいなのだ。



公園を歩いていると、秋らしいささやかな色彩に出会える。
小さく、ささやかな秋である。



これは「臭木」である。
白い可憐な花が咲き、やがて、この仄赤い実となる。
確かに、臭いのだけれど「臭木」ではあまりに可哀そうである。



桜の木は、ほろほろと病葉を落とし続ける。
病葉を落とすことで、健やかな樹勢を保つのだろうか。



その桜の樹の横に、コスモスが咲いていた。
それこそ、ひっそりと咲いていたのだ。
(rippleさんからの指摘)これは周明菊です。
そう、その通りで、この花は周明菊です。
誤った情報でした・・・ごめんなさい!

そして、rippleさん・・・ありがとうございました。



季節は、ヒガンバナ。
巾着田に行けそうもない。
気がせいてならないのだけれど、どうにも時間が取れない。







「若き穂のやがて開ける芒かな」







若いススキの穂が出ている。
幾星霜、こうして人の目を楽しませてきたのだろうか。

歌にすれば物悲しく、絵画にすれば嫋(たおやか)である。
手に取れば「はらりとおもき」芒である。



        荒 野人

酔芙蓉の色変化

2013年09月21日 | ポエム
酔芙蓉は不思議であって、魅惑的な花である。



一日経つと、こう変化する。
色も赤くなり、花は萎む。

酔芙蓉は、一日で花が終わる。



朝は純白である。



蕊もシャキッとしている。
可憐なのだ。







「酔芙蓉命の限り散り急ぐ」







この色は、およそ午後一時である。



少しピンクがかっている。
酔い始めた花である。
お銚子1本程度であろうか。

これが、午後4時になるとこう変化する。



同じ花である。
夕には、赤味がもっと増す。

おどろく変化である。



時々刻々と変化するのであるけれど、その変化をずっと見ている訳にもいかない。
従って、時間で追うしかないのである。



赤味が増したこの程度は、既にお銚子3本はいっている。



これで酩酊状態である。
見ているぼくも少し酔ってしまった。

酔芙蓉の薀蓄をご披露しよう。
フヨウの花のように美しいしとやかな顔立ちの事を「フヨウの顔」と言う。
昔から美しい女性のたとえにもちいられ 花言葉も「しとやかな恋人」である。

中国、後蜀(ごしょく)の後主昶(こうしゅちょう)は、居城のある成都に、160Kmもの長さにわたり芙蓉を植え数千人の美女たちと艶やかさを褒めたたえたと言われている。

中国では、芙蓉は、ハスの花をさし花木の芙蓉は、木芙蓉の字をあてている。
中国に「謝晋」という映画監督がいる。
彼の撮った「芙蓉鎮」という映画はぼくの心を打ったものだ。

花言葉をもう少し紹介する。
「しとやかな恋人」「繊細美」「微妙な美しさ」である。



すっかり酩酊した花である。
なんとも、微妙に不思議な花である。



          荒 野人