エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

雪の六義園

2015年01月31日 | ポエム
30日朝、窓を開けると雪が降っていた。
午前中は、まだ降り続くと云うのだ。

一念発起「良し!六義園」だ!
朝食を認め、長靴を履き、出かけたのである。



園に着いた時、雪は按配良く降り続いていた。
この桜は、六義園のもっとも有名な枝垂れ桜である。

園に入って、真っ先に視野に入る桜である。
咲き始めると、ライトアップもしてくれる。
見目麗しく且つ一本桜の孤高を守っている。
それが、潔くて良いのだ。



雪は降りしきる。
朝一だったからでもあろうか、まだ人は少なかった。

この庭園は、柳沢吉保の下屋敷であった。
将軍・吉宗も遊びに来たと云う場所である。

池を中心にした「回遊式庭園」であり、大名庭園である。
池に降る雪・・・なんとも言えず美しいのである。







「降りしきり水面に触れるまでが雪」







島に渡る「渡月橋」である。



降りしきり、降り積む雪。
昼前、おおよそ11時頃・・・。



この茶店・・・吹上茶屋で抹茶を頂いた。
池に降る雪を眺め、雪吊りの縄目を数えつつ「練切の菓子」と「抹茶」を楽しんだのであった。
和菓子は、梅を模している。



適度な甘さが、身体に沁みてくる。
抹茶の渋みが心地良い。



充実した時間であった。
丁度茶を喫し終わるころ、雪が霙に変わってきた。

良いタイミングであった。



      荒 野人

カワセミとダイサギ

2015年01月30日 | ポエム
昨日のカワセミは、いつものように精悍であった。
ぼくが、いつも散歩の途中に立ち寄る池である。



ここのところ、毎朝のように出会う。
カメラを持った「ウオッチャー」も、日毎に多くなっている。
その意味では、騒がしい。

昨日の朝は、ダイサギも二羽来ていた。






「霜柱女の踏みし跡嬉し」







池に急降下し、小魚を捕獲して向かいの枝に舞っていく。
素人カメラマンは、その方向に移動する。

その動きが煩い。
煩いけれど、カワセミは何知らぬ顔である。

その自然体が良い。

返り道、分厚い霜柱があった。



誰が踏んだのだろうか、壊されてしまった霜柱が悲しく見える。
けれども、女が踏んで遊んだのなら許せる。



過日の句会で、女はあまり踏んで楽しまない・・・。
そう発言したのだが、その発言は女性たちに全面的に否定された。
「女も踏んでその感触を楽しむ」というのである。

そうであるなら、嬉しい。
女性の無邪気が嬉しい。
その遊び心が嬉しいのである。



        荒 野人

久しぶりの空と雲

2015年01月29日 | ポエム
このところ、なぜか哀しく空を見上げるゆとりに欠けている。
昨日は、朝方まで降っていた氷雨が大気を冷やしていた。

けれど、おかげと云っては可笑しいけれど空はあくまで澄みきった。
雲が、より綺麗に見えるのであった。
もちろん、雲の蕪には「邪な」黒を帯びた雲もあったけれど・・・。



雲は遊弋しつつ、流れる。
時に千切れ、時に寄り添う。







「エチュードや一句捨て難く懐手」







雲は天才・・・言うまでもなく天才である。
石川啄木が、そう言い放ったときの心根は何だったのだろうか。
いまこそ知りたいと思う。

友人たちが自分よりもえらく見えた日。
啄木は、花を買って帰宅し妻と親しんだと詠んでいる。
その気持ちは、来し方行く末を考えて暗澹たる気分に横溢している。
読むほどに、哀しくなってくる。



雲がどこかに引っかかる、そんな気配に救いを持ちたい。
そのように啄木は詠んでいる。



ぼくの気分もそうなのだと思いたい。
啄木に天性のものと云えるほどの、才能。
それには遠く及ばないけれど、せめて気分だけでもそうありたい。



       荒 野人

白梅

2015年01月28日 | ポエム
白梅の見方。
どの角度でも良い、ただどの角度から見たとしても「美しい!」と語りかけなければいけない。
事実、白梅はアップで見ても美しいのだ。



紅梅が欄曼として咲き誇る。
白梅が、それを追いかける。
追いかけて追いつく。

今日、明日は暖かいのだと云う。
桜の咲く候の気温だ、と云うのである。







「白梅やすまじきものは花泥棒」







白梅の白さは、君のようである。
楚々として且つ甘やかである。



ぼくは顔を埋(うず)めて、その白さと甘さにいつまでも浸っていたい。
漢の願望はいつまでも尽きない。
いじましいほどの願望である。

それにしても、今日の俳句は駄目だ!
季語が動く。
動くどころか、花の名前ならなんでも変えられる。
時節俳句として・・・ご勘弁!




       荒 野人

福寿草

2015年01月27日 | ポエム
地植えの福寿草が咲き始めた。
健気である。
黒い土、堅い土を割って芽を出す。
そして、楚々とした黄色の花を咲かせる。

山野草の中で、好きなランクの上位である。



福寿草・・・新年の季語である。
確かにそうではある、そうではあるけれど新年の福寿草は大概「鉢植」で咲いている。
大地を割って咲くのは、今頃である。

今日は夜来の雨が上がって、ぐんぐん気温が上がっている。
報道では、河津桜が咲いたと云う。
例年より一週間から10日早いらしいのだ。
2月24日に河津に出かける予定である・・・その頃は、もう花の終わりなのだろうか。







「福寿草夜来の雨の湯気の中」







我が家の鉢植の福寿草は、三年前に朽ちてしまった。
群馬のろうばいの里で購入したのであったけれど、ろうばいの里の記憶とともに朽ちてしまったのであった。

誠に寂しい。
福寿草の別名は「元日草」である。
情緒豊かな別名である。



この地植えの福寿草は、朽ち葉に守られている土を割って出てきたのである。
自然の力は、人智を遥かに超える。
落葉は土を守り、土の中の生命を守るのだ。

土の中の輪廻転生は、自然の営みに守られている。
いや・・・育まれているのだ。

大地は、更に更に讃頌しなければならない。
人は声に出して大地を讃頌せよ!
と、言いたいのである。



       荒 野人