エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

パラグァイ戦に思う・・・外は大雨!

2010年06月30日 | 日記
熱帯地方にある「驟雨」のような降り方である。
この降り方はスコールだ。

いま、日本対パラグァイ戦が中継されている。
日本は押されているけれど、徐々に白熱してきているのである。

良い試合になりそうだ。



太文字が首都「アスンション」である。
一番下にある街が「エンカルナション」で、日本人移民が上陸した地点である。

ぼくの父が分骨され眠っている街「ピラポ」はこの「エンカルナション」の近くである。



スペイン統治の遺跡、イエズス会の伝導施設跡もこのすぐ傍である。
ここは、パラナ河の流域に位置する。

この遺跡はパラグァイの唯一の世界遺産である。
ぼくは照りつける陽射しの中で、テレレという冷たい飲み物を飲みながら見学をした。

テレレは冷たいマテ茶である。
温かい状態で飲めばマテ茶なのである。

ぼくはブラジルのサンパウロからイグアスまで飛び、車で5時間の行程のピラポに行き、お墓を建立した。



パラグァイの国旗である。
パラグアイとの試合は、いま前半が終わった。

0対0である。
後半戦が楽しみになって来た。

イグアスの瀧のように、激しい試合を期待したい。



イグアスの瀧の「悪魔の喉笛」である。
この日、雨上がりであった。
水は濁り、凄まじい水量で人を寄せ着けず、人智を圧倒した。

日本でもパラグァイでも良い。
見る者を熱狂させるゲームを戦ってほしいのである。




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                     荒野人

13時45分サッカーの試合が終わった。
日本のワールドカップが終わったのである。
120分の死闘であった。
PK戦で散った。

日本代表に拍手を送りたい。
パラグァイには、これからも勝ち進んでいただきたいのである。

いまぼくはジーンと来ている。

お休みなさい。

百合に寄するの吟

2010年06月29日 | 日記
芳香を放つ百合の群落にあって、ぼくは噎(む)せかえった。
しばらくするとその芳香に慣れてしまって、少しだけ寂しい思いをしたのである。



眼にも優しく咲いている百合はいじらしくもあるのだ。






         百合に寄するの吟


      百合
      が

      その肢体を艶やかに見せるとき

      空気が一瞬にして
      色彩を帯びるという神話が
      丘陵を駆け去っていった


      百合
      が

      放つその香りで呼吸を噎せかえさせるとき

      清廉潔白だった神々の呼気を
      凍らせるという神話が
      生き物を石に変えていった

      百合はメデゥスの化身か
      蘂の一本
      一本が
      身をよじらせる
      と
      形而上の意思が
      たちまち形而下の木石に止揚する
      という現在の寓話が
      産まれるのだ

      かくして
      寓話が産まれ
      ぼくが
      産まれた





年に一度出会う百合の群落ではあるけれど、今年は長野の富士見高原でもう一度出会えるはずである。



富士見高原の「百合の里」は夏季にハングライダーの練習場となる。
冬はスキー場である。

昨年の富士見高原の百合を紹介しましょう・・・。



いかがですか?
斜面に咲く百合です。
その斜面をリフトに乗って百合の花を楽しめるのである。



白樺林の中の百合の花である。

今から二度目の百合の花を楽しみにしているのである。






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                     荒野人

追伸 メディウスはギリシャ神話メデュースの男性形である。

歩く姿はユリの花

2010年06月28日 | 日記
丘陵百合園が見ごろだという。
場所はユネスコ村があった西武球場の隣りである。



ここはいわゆる丘が連なっている場所である。
狭山丘陵である。

狭山丘陵の全域は「トトロの森」の愛称を得ている。
縄文の時代からこの丘陵には人が生活していたのであり、遺跡が数多く残されている。



丘陵に人の手で植栽されている百合である。



それにしても管理は大変だろうと推測される広さである。



色彩が混然としているほうが美観が高まるのは、人が憧れているのは自然だからだろうか。
こうした花の咲き方が好感できるのだ。



今日は曇天から晴天へと劇的に変わった。
蒸し暑いので早々に引き揚げ、帰宅途中、昼食を認めたのである。





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大相撲が揺れている

2010年06月28日 | 日記
大相撲が揺れている。
外部有識者による特別調査委員会もなんだかな?という印象である。

「高いハードル」を設定したとか言っているけれど、少しも高くない。
当然であって、その条件を満たしたにしても名古屋場所開催は国民の理解は得られないと思うのである。



誇り高き「国技」だったのではなかったか。
とにかく開催へと、恥を放擲しているとしか思えないのである。

厚顔無恥の所業である。



ましてや、この地域には横綱公園があってその公園には震災・戦災で亡くなった児童の慰霊碑が建立されている。
死者慰霊堂には震災、空襲で亡くなった162,600柱の遺骨が納められているのである。

敬虔な祈りの場所に国技館はそびえているのである。
ぼくは哀悼の誠を捧げたのである。

この子らもきっとお相撲さんに憧れたに違いないのである。



両国駅前の駐輪場の名前は「横綱駐輪場」である。
町名が「横綱」なのである。

ここまで愛されていたのだと、関係者は知るべきであるのだ。



力士・琴光喜と親方・大嶽親方だけを人身御供にして乗りきろうなどとは「笑止千万」である。

所詮、特別調査委員会のメンバーも浮世とはかけ離れているのである・・・と言わざるを得ないのは悲しい。
野球賭博を断罪しつつ「暴力団と関係なかった」と言い切っている。

そんな「ばかな!」である。
では誰が胴元だと言うのだろうか。
こうした牧歌的結論は、暴力団の跋扈を見逃す行為に他ならないではないか。

特別調査委員会は「国民から理解得られる!」とコメントしている。
数千万円の野球賭博に暴力団が関与していないなど、だれが納得するというのだろうか。





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山に分け入る

2010年06月27日 | 日記
東京から脱出して山に分け入ると、山アジサイに出会えるのである。
もっとも、そこまでしなくても豊島園のアジサイ園には有数の山アジサイが植えられている。



ヤマアジサイは別名サワアジサイといい、内陸の湿度のある山林に自生する小型で葉に光沢のないアジサイである。

紫陽花の花言葉は「移り気」「元気な女性」「高慢」であるけれど、山アジサイには当てはまらない。
この山アジサイのたたずまいは、むしろ「清楚」「ひそやか」「たおやか」「生命力」が適当ではないかと思うのである。



小さくて、可愛くて、ほほえましい。
抱きしめてしまいたいほどの可憐さがあるのである。



ヴェールの向こうから山アジサイはぼくたちの生きざまを見ているのかもしれない。
だからこそ手折(たお)ってはいけない。

山アジサイこそ「花泥棒」に大きな罪があるのだ。
一部の理も無い。



最も一般的に植えられている球状のアジサイはセイヨウアジサイであり、日本原産のガクアジサイ(Hydrangea macrophylla)を改良した品種である。

この山アジサイこそ原種である。

歴史的には、鎖国時代に日本に渡来し、オランダ人と偽って出島に滞在し医療と博物学的研究に従事したドイツ人医師にして博物学者シーボルトは、オランダに帰還してから植物学者のツッカリニと共著で『日本植物誌』を著した際にアジサイ属14種を新種記載している。



こうして山アジサイを見ていると、確かに葉に光沢が無い。
葉に光沢が無い分、額が鮮やかに沁みこんでくるのである。






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