エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

飛来せり

2012年11月30日 | ポエム
おっぺ川に今年も又コハクチョウが飛来している。
おっぺ川、埼玉県の川越市の隣り「川島町」を流れている。

ワタリの白鳥である。



昨日は12羽が現認出来た。
毎日通っている地元人の話だと、一昨日はこの倍の数だった・・・と言う。
川の上流か、それとも下流域にでもお出かけなのだろう。







「渡り来る決まりのごとき小白鳥」



「白鳥の姿正しく飛来せり」







彼らの顔は誠に「愛くるしい」のである。
だが、時として鋭くこちらを睨みつける事もある。



「コハクチョウですが・・・何か!」
そんな声が聞こえてきそうな顔である。



そうかと思えば、ソッポを向く。
後ろ姿もほど良い。



身づくろいにも余念が無い。
白鳥は美しく在らねばならないからであろうか?

すいすい泳ぐ。
餌の小魚も漁る。
身づくろいもする。
時々群れる。
声も出す。
白鳥らしくあらねばならない。



コハクチョウは疲れるのである。



たった12羽しかいないのに、2羽が御休みである。
渡って来た時の疲れも、まだ残っているのであろう。

可愛い寝顔である。
近くによってシャッターを切っても起きようとしない。
余程眠たいのであろう。

気の向くままゆっくりと休みたまえよ!



       荒 野人

落ち葉がわんさか

2012年11月29日 | ポエム
落ち葉が、こそっと降るのは風情が宜しい。
けれど、わんさか降り積むと清掃が大変である。



この場所は松平家の墓所である。
もっとも著名なのは、知恵伊豆の異名を持つ松平信綱、川越藩主であり徳川幕府の功臣である。

流石は古刹「平林寺」である。







「落ち葉掃くまた掃くのかと問いにけり」







大きな葉は、朴の落ち葉である。
朴葉味噌は、香りも良く、それだけでご飯が頂ける。

こうした落ち葉、朝な夕なに清掃をするのだと言う。
僧侶の修行も大変である。



平林寺を流れる用水の枝流にも落ち葉が降りこんでいる。
昨年まで「山門不幸」の看板を出さしめていた住持の思いは全山紅葉に!
だったと言う。

今ある植栽を次々と紅葉に変える。
大変な作業である。

だがしかし、もしもそうなったら・・・と思うと楽しみである。
けれど、ぼくたちの世代では完成しないだろう。

完成しないだろうけれど、その思いや良し!
である。



       荒 野人

平林寺の紅葉

2012年11月28日 | ポエム
埼玉県新座市にある古刹・平林寺の紅葉が見頃を迎えている。
紅葉を愛で、写生をしたり写真を撮ったり、そして集団でワイワイガヤガヤと喧(かまびす)しい。
しかしながら、その喧しいのは楽しい。

山門には流石「山門不幸」の看板は無くなっていた。
二年掲げられていた看板である。



衆人楽しかりけり・・・の山門である。



ここの紅葉は、その赤さが京都にも匹敵する。
と、ぼくは思っている。



赤、黄、そして青と色が交錯する。
色の交差点である。



淡かったり、鮮烈であったり、その交錯は鮮やかである。



例年真っ赤になるこの小径は、見頃はもう少し経ってからと見た。
昨年に比べれば、比較的に綺麗である。

夏の熱さが長かった分、昨年は葉の色づきが今一であった。
だがしかし、今年はそれでも昨年よりは美しい。







「紅葉燃え人みな黙し通り過ぐ」







息を呑む色合いに、俳句どころではなくなっている。
感動は、手を縛る。

ペンを持たせてくれない、と言って良いだろうか!!







「紅葉を透かして降るる陽射しかな」







色彩のカーテンは、見事である。
そしてまた、色彩のカーテンは陽射しの中で輝く。



揺れ惑う光が水面で交錯する。
色彩の交錯。
色彩のカーテンは、おひさまがその内包された美を引き出すのである。



      荒 野人

山装う、を詠う

2012年11月27日 | ポエム
今年、山の装いを詠わなかった。
それは拙いでしょう!



「山装う」
晩秋の季語である。

少しばかり、色褪せつつあるけれど、山の色は格別である。



ここは、南アルプスの山肌。
ずっと曇空だったけれど、時々陽が射す。



色彩が際立つ。
お陽さまの力である。







「垣間見ゆ陽の差す斜面山装う」



「錦秋の化粧のままの山の貌」







この日、夕焼けが空を覆った。



冬夕焼けである。
夕焼けは一年中あるけれど、冬の夕焼けは寂しく、だがしかし色鮮やかな時を演出する。



落葉松の林が見事であった。



        荒 野人

古墳との対話

2012年11月26日 | ポエム
古墳の時代。
今を遡る、1300年ほどの昔である。



豪族が地方に割拠した時代である。
古墳の時代は神話の時代の隣りである。

もちろんその時代に魁て縄文時代があり、弥生時代がある。
もっと遡れば石器時代に逢着する。



今日紹介するのは埼玉県の行田市にある「八幡山古墳」である。
近くに「のぼうの城」で有名になった忍城があるし、さきたま古墳群がある。
歴史の街である。



この古墳は「埼玉古墳群」とは系列を異にする。
若小玉古墳群に属するのである。







「石組の古墳と語る冬隣り」











    遺跡は美しい。
    遺跡は今なお、呼吸している。
    遺跡は幾星霜の風雪に耐え、厳然とそこに在る。

    それが素晴らしい。
    それがぼくの心を打つ。
    ぼくは遺跡に魅せられる。
    ぼくは遺跡に打ちひしがれる。

    遺跡は現在に蘇るパンドラの箱である。
    遺跡はぼくの内なる宝石箱である。







遺跡は、何も語らないけれど、悠久の時間にだけ語りかけている。
悠久の時間、それは次元の壁である。



江戸時代より既に石室の一部が露出していたが、1934年11月に小針沼の干拓工事で盛土が取りさられて石室が完全に露出。
その様子が、飛鳥の石舞台古墳に似ていることから、考古学者の大場磐雄が「関東の石舞台」と形容したのである。

石室の構造は羨道・前室・中室・奥室からなり、全長は16.7メートル、奥室の高さ3.1メートルである。
当時の円墳としては大きいのである。



絹布に漆を塗り、繰り返し重ねて作られた棺の破片(乾漆棺、漆塗木棺片)が出土しているのである。
畿内の終末期古墳と共通する出土品が確認されたことから、被葬者が宮廷ときわめて近い関係の人物と考られている。

具体的には、聖徳太子伝暦に登場する「武蔵国造物部連兄麿(むさしのくにのみやつこもののべのむらじえまろ)」の墓と言われている。

空想が空を飛び、時代というキーワードが飛翔する。
人が運んだ巨大な石室の石たち。
どんな思いが籠められていたのだろうか。

この石室内には、土日祝日だけ入る事が出来る。
公園の入口に、小さな管理棟らしき建屋があって、そこにじっと遺跡を見つめ続けている小母さんがいて、無言でガリ版刷りのようなオアンフレットを渡してくれる。

何故か、気持ちが温かくなってくるのである。




               荒 野人