エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

白鳥

2017年01月31日 | ポエム
埼玉県は川越市の先、川島町を流れる越辺川(おっぺがわ)の白鳥である。
東北地方の余りの寒さに、多くのコハクチョウがここまで南下してきている。

過日、出かけたのだけれど概ね百数十羽が翅を休めている。
その様は壮観であった。

この数は、ぼくがこの場所に出かけて以来最大の数である。



『何か・・・?」
そう云いたいのだろうか、おとぼけ風の顔つきである。
しかし、可愛いのだ。



ぼくが出かけたのは、午後の2時以降。
どこかで食事を済ませて、戻ってきたところであった。
向こう側の白鳥は、殆ど寝ている風であった。







「眩しき日遊べよあそべコハクチョウ」







コハクチョウ。
その白さは、眩しく暖かい。
厳寒のシベリアからの飛来、である。



少しばかり斜に構えていても、良いではないか。
それもまた、許容できるし受け入れたい。
自然のままにここで越冬して、暖かくなったら「北帰行」を成せば良い。



遊べよ遊べ!
飽食するな!

力を蓄えよ!
しかして、また飛来せよ!



     荒 野人

沈黙

2017年01月30日 | ポエム
映画「沈黙」を鑑賞した。
遠藤周作の小説の映画化、である。
ハリウッド映画としてはリメイク版だ。

とても感動した。
ぼくは、クリスチャンでがないけれどアガペーについて或いは塩の道について考えさせられた。
そして、沈黙の重さについて考えさせられたのであった。

俳優陣は、パードレ役以外は日本の俳優である。
とりわけ優れて見せたのは「イッセー尾形」。

映画が終って、観客は殆ど席を立たなかった。
エンドロールの最後まで、座席に背を凭せたままだったのである。
かくいうぼくも、その一人であった。

この映画、何故日本人の監督が撮らないのだろうか・・・。
不思議でならない。
優れて、日本の封建社会・鎖国政策の真っ只中の出来事であるというのにだ。







「沈黙といふアガペーや冬の虫」







この映画、素晴らしい出来上がりである。
あるけれど、一つだけいかにもハリウッド映画らしいシーンがあった。
それだけが、残念であった。
何人かの信仰深い信者が、踏み絵を踏まなかった。
その中の、一人だけがその場に残された。
他の信者は、牢獄へと追い立てられたのであった。

直後、白襷の侍が現れる。
白刃一閃、残された一人の首が転がる。
その頭部を追う、キャメラ。
頭部の無い身体を引きずるシーン。

思わず、ぼくは目を逸らした(本当は直視しなければならないのだろうけれど)。
このシーン、日本人の監督ならきっと違うキャメラ・ワークを求めるだろうと思う。
白刃一閃だけで、以後の場面を想像させるのだと思う。
けれど、映画としての瑕疵にはなっていない。



Bach: Erbarme dich, mein Gott (Matthäuspassion) - Galou (Roth)






エンドロールも見事である。
漆黒の闇がスクリーンに映し出される。

すだく虫の音が聞こえる。
虫の声が止むと、驟雨が来る。
驟雨とともに、雷が轟く。
雨水が、丘から流れ落ちる。
漆黒の闇なのだけれど、ゲッセマネの園からシーンがゴルゴタの丘へとシーンが移ったと想像させる。
キリストの磔刑と復活。

ゲッセマネの園は、ユダの裏切りと最後の晩餐の場所である。
ゴルゴタの丘は、新約聖書においてイエス・キリストが十字架に磔にされた場所とされる。
新約聖書には、ここで弟子のイスカリオテのユダの裏切りを受けたイエス・キリストが十字架に磔にされたと書かれているのである。

それらを闇が伝える。
沈黙のアガペーである。

もう一度観たい映画、である。
今度は「深い河」の映画化を望みたい。

テーゼとは何か。
教義とは何か。
沈黙とは何か。
アガペーとは何か。



あらゆる、何かを問いかけてくる映画である。



     荒 野人

奥多摩の山

2017年01月22日 | ポエム
今日、奥多摩まで出かけた。
青梅にいる、大兄の見舞いに出かけたのである。
いつもの、従兄と共に・・・。

大兄に、お昼ご飯をご馳走して頂いた。
見舞いに「和菓子」一折を持参しただけなのに・・・。
しかも、高級な日本茶までお土産に頂いてしまった。



その後、小河内ダムまで出かけた。
奥多摩の山は、まだ雪をしっかりと残している。



陽当たりの良い丘陵地は、新芽らしき色合いが垣間見える。
春隣の奥多摩ダム湖、である。







「粛々と谷の筋まで山眠る」







山は『眠って」いる。
尾根筋、谷筋それぞれが雪を被っているのだ。



夕方、ダム湖は銀色に光りながら闇に沈もうとしていた。
詩情に充ち満ちている。

だがしかし、俳句は詠めなかった。



     荒 野人

山茶花の蘂

2017年01月21日 | ポエム
今日は今日とて、誠に寒い。
寒さの元は、風の強さである。

花々は、密やかにかじかんでいる。
春はまだ・・・遠いのかもしれない。
寒の内、であるのだ。
然も昨日が「大寒」。



とりわけ山茶花は、蘂を寒々と残している。
その蘂の白さが、寒さを増幅するのである。







「山茶花の蘂の残りて生々し」







垣根の曲り角にある山茶花は、唱歌にもなっている。
焚火こそ、最近は目にしない。

近隣が「もらい火」を気にするからである。
しかしながら、その焚火の中でゆっくりと焼き上げる「お芋」は美味い。



そうした冬の味覚を失いつつある、日本人である。
それは・・・寂しい。



    荒 野人

ラスコー展

2017年01月20日 | ポエム
今日は大寒の日。
風花が舞う中・・・。
ぼくは上野に出かけたのであった。
目的は「ラスコー展」。
国立科学博物館で開催中である。



二万年前、クロマニヨン人の描いた洞窟画である。
ぼくは、何かの啓示を得たくて出かけたのであった。
石器時代の先史にあたる。
日本では、縄文時代すら始まっていない。



ラスコー洞窟の壁画は、アルタミラ洞窟壁画と並ぶ先史時代の美術作品である。
これは1940年9月12日、ラスコー洞窟近くで遊んでいた近くの村の子供たちによって発見されたのである。







「風花の止んで視界の狭まれリ」







洞窟の側面と天井面(つまり洞窟の上半部一帯)には、数百の馬・山羊・羊・野牛・鹿・かもしか・人間・幾何学模様の彩画、刻線画、顔料を吹き付けて刻印した人間の手形が500点もある。

これらは15,000年前の後期旧石器時代のクロマニョン人によって描かれていたのである。
ラスコー展自体は、感動が少ない。

入場者をラスコーの現地に誘う工夫が、乏しいのである。
洞窟があって、この絵はこの場所にある・・・。
そんな風に説明しているにすぎない。

ラスコーの洞窟に入って鑑賞すると云う、その臨場感が全くないのである。
この展覧会なら、書籍を読んでしまえばそれで済む。

その程度の展覧会になっている。
残念である。

やはり、この会場で開催された例えばペルー地上絵展。
ただ、俯瞰する写真では無かった。
動画で、空中に連れていってくれた。
地上絵を空から俯瞰させるような工夫があった。

この展覧会も、そうした工夫が欲しかった。
ラスコーの洞窟に入って、洞窟画をみているような感覚を味わいたいではないか。



    荒 野人