エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

白いもの

2016年04月30日 | ポエム
季節で云えば、白は秋である。
北原白秋という号は、それに由来する。

では、春の色は・・・青。
夏の色は・・・朱。
秋の色は・・・前述通り白。
冬の色は・・・黒。

となっている。
この色分けは、古代中国の五行説を出典としている。
四季別に、青・朱・白・黒を配し、青春・朱夏・白秋・黒冬としているのである。

なるほど、である。
なかなかに説得力のある五行説ではある。



今日は、しかし春にもある「白いもの」を紹介したいのである。
何故か・・・?
白タンポポを見つけた、からである。



花だけをアップで見てみようか。



見事に白である。
ぼくたちが子どもの頃、もっと沢山白タンポポはあったと記憶にあるのだけれど・・・。
近ごろは目にする事が無くなった。



シロツメクサ、である。



もちろん、花水木である。



これは車輪梅。
奄美大島の「大島紬」の染料として、この樹皮が使われている。







「白きもの街に溢るる夏隣」







上は、シャスミン。
下は、白の苧環である。
誠に清楚にして、愛おしい色合いである。



白山吹。



蒲公英の絮である。



最後にお出ましになるのは「ヒメジョオン」。
「ヒメジオン」と云う人もいる。
どちらでも良い。

高貴にして。清楚な花である。
山菜として頂く事も出来る。

若い茎や蕾が食べられる、のである。
そろそろ、柿の葉の天麩羅を食べたくなって来た。
今頃の柿の葉は、美味しいのである。



      荒 野人

母子草

2016年04月29日 | ポエム
母子草は、いかにも悲しい。
けれど、考えようによっては眩しい。

花は、嫋やかである。







「しめやかに野を画布とする母子草」







あまり群れない雑草だけれど、一つの山になって咲く事が多い。
ただ一輪だけと云うのは少ない。



ぼくはこの花が好きである。
別に物語を語る訳でもなく、ただ淡々と咲いている。

その草叢の風情が好きである。
それだけである。



     荒 野人

レンゲ草

2016年04月28日 | ポエム
もっと早く詠みたかった。
けれど、なかなか詠む事が出来なかった。

レンゲ畑が少なくなってしまったからだ。
薄ピンクのレンゲが、風に揺れる様は仄仄としている。
ぼくは、何故か胸の辺りがキュンとするのだ。



母の記憶とか、母亡き後の父との生活だとか・・・あるいは妹の可愛かった頃の事とか。
そんな事どもが、思い出されてならないのだ。







「レンゲ草母の胸へと還る日々」







レンゲ草の一つ一つの花が、微笑んでくれている。
そんな風に思ってしまうのだ。



レンゲ草に寄せる思いは、故郷への思慕であると云っても良い。
悲しかった思い出や、楽しかった思い出。
母の優しさだったり、父の強さだったりするのだ。

いつか、なんの蟠りも無く帰郷出来るのだろうか。
長い年月の、静かな効き目があれば良いのだけれど。
それは決して特効薬でなくても良い。

穏やかな効き目があれば・・・嬉しい。



     荒 野人

蒲公英

2016年04月27日 | ポエム
タンポポである。
花の半分ほどが、絮(わた)になってしまっている。

しかし、そのそよぐ姿は自然に任せていて清々しい。
ありのままであるからだ。



さて、白いタンポポを発見した。
タンポポ黄・・・とか俳句に詠むふしがあるけれど、それは違う。
タンポポ白・・・もあるのだ。



面白いね!
でも、この白のタンポポは突然変異である事は論を俟たない。



そもそもはこうである。
この間、秩父の美の山に行ったと書いた。

この山の色彩感覚は、優れて鮮やかである。



タンポポの色も濃い。



勿論、淡い色もあるけれど総じて色が鮮やかである。
それは、しかしながら嬉しい。







「タンポポや絮になっても花は花」







絮になったタンポポと、並び立つ色の鮮やかなタンポポ。
どちらも花だって!

本当にそう思うのである。
風を待つ、子どものように。



     荒 野人

玉川上水を歩く

2016年04月26日 | ポエム
誠に爽やかな一日であった。
今日も又、湿度が低く爽やかな一日となりそうである。
そうだ、間もなく爽やかな五月なのだから・・・。



この上水沿いの径は、気持ちが良い。
近在にお住まいの方の、心根の優しさが知れるほどである。



水の流れは江戸時代から続くのである。
かなりの速さであって、太宰の入水が良く分かるのだ。
この速さなら、目的は貫徹されると思い込んだに違いないのである。



かつて江戸市中へ飲料水を供給していた上水(上水道として利用される溝渠)であり、江戸の六上水の一つである。
多摩の羽村から四谷までの全長43kmが1653年に築かれた。
一部区間は、現在でも東京都水道局の現役の水道施設として活用されている。



羽村取水堰で多摩川から取水し、武蔵野台地を東流し、四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)に付設された「水番所」(番屋)を経て市中へと分配されていた。



水番所以下は木樋や石樋を用いた地下水道であったが、羽村から大木戸までの約43キロメートルはすべて露天掘りであった。
羽村から四谷大木戸までの本線は武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれているほか、大規模な分水路もそれぞれ武蔵野台地内の河川の分水嶺を選んで引かれている。







「春の径文字の擦れの石碑かな」







この上水あたりの在。
日々、水の有り難さを感じているに違いない。

そうであって欲しい。
いつまでも保全していくことが、今を生きる私たちの責務なのかもしれない。



     荒 野人