エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

秋思

2016年09月30日 | ポエム
予報だと、もっと遅くなってからの雨なのだけれど・・・。
午後の早い時間から、降り始めている。

秋の長雨、である。





♪チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調op 74『悲愴』/ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル 1960年






第四楽章を聞いている。
秋の午後、とりわけ長雨の午後に聞きたくなるのだ。

この楽章を聞いていると「秋思」という季語が脳裏を駆け巡る。
ゴリラの眉間のように、或いは又並木を鎮める枯葉のように・・・。
カーンと冴え返っているのは、花水木の赤い実生。

第四楽章は「アダージョ・ラメントーソ」。
この盤は、ムラヴインスキーの名演奏である。
レニグラード。フィルハーモニーが見事に名指揮に応えている。

何故かしら、涙が零れてならない。
そんな演奏である。







『野仏の眉間に宿る秋思かな』







1960年の録音だけれど、ぼくの琴線を揺らし続ける。
ぼくは今「たゆたい」の中に居る。



まるで、この演奏は母の胎内で聞いた心音のように響いてくるのだ。
柔らかく優しく語りかけ、而して包み込むように・・・。
愛情のたっぷりと詰まった、母の心音である。



     荒 野人

金木犀

2016年09月29日 | ポエム
気がつけば、木犀の花が満開である。
昨日の、夜風に乗ってきた香りは金木犀。

誰もが思う・・・匂いの在処という概念。
その概念だけで、句は詠めない。
詠めないし、類想句に陥ってしまうのは必定である。



金木犀は、その在処など探索する必要などないのである。
其処に在って、在るもの。
それが木犀なのである。







「木犀の毅然と散らす枝の先」







あなたは、今年の香りを捉えましたか。
ぼくは、昨日の夜から鼻孔に感じています。

目から鼻へ、それは必然的な匂いの辿る道。



改めて云うまでも無い。
金木犀の香りは、幼かった頃の淡い恋心でもある。



きっと・・・今頃中国の桂林では街中を匂い立たせていることだろう。
桂林の桂は、金木犀のことである。

水墨画の世界を舟下りする、あの桂林である。



桂林の街中から、陽朔(ようさく)までが舟下りのルート。
山紫水明の限りない絵巻の川沿いを・・・行くのである。

いつか、必ず詠みたい心象風景と記憶の世界である。
金木犀の咲く頃は、そうした記憶が蘇ってくるのだ。



     荒 野人

実る秋

2016年09月28日 | ポエム
実る秋。
たとえば、栗の実。
たとえば、蕎麦の実。
たとえば、稲。



天高く、とたとえられた秋だけれど・・・。
雲が垂れ込める秋、である。



しかしながら、実るべきものは実っている。
実ってはいるけれど、不作である。
天候不順に敏感に反応する、万物である。



をりとりて・・・と詠んだ飯田蛇笏を紹介した。
今日はもう一つの句を紹介しよう。
何故なら、改めて蛇笏翁の句集を読み直しているからである。



秋の句、である。
7月の末に自裁した芥川龍之介への弔句である。



「たましひのたとへば秋のほたる哉」

ぼくは、この句に感動した。
感動したし、ぼくの俳句の原点かもしれない。
蛇笏翁がこの句を発表したのは「雲母」九月号である。

この句に出会い、ぼくは俳句を学ぼうと強く思ったのであった。
俳句を始めて、二ヶ月目のほど過ぎた頃であった。







「豊の秋神の業なる不文律」







実りの秋。
必ず思い起こされる句、である。
因に、飯田蛇笏翁の生家「山櫨」はぼくの実家から近い。
幼かったぼくが、自転車で凡そ4〜50分程度の位置関係である。

故郷の俳人、である。
飯田竜太氏も偉大な故郷の俳人、である。

山梨県立美術館の横に、文学館がある。
そこに、飯田蛇笏コーナーがあると聞いた。
不幸にして、まだ訪問できていない。
美術館のミレーの晩鐘は、あまりにも有名すぎて足が遠のいている。

榠樝の実る頃に赴いたこともあった。
けれど、榠樝の木ばかり見ていた。
この晩秋、出かけようと思っている。

ぼくの俳句に実りがあるだろうか・・・。
蛇笏翁のあの格調は、やはり甲斐の国の山塊に棲む厳しさが紡ぎ出したのであろう。



     荒 野人

五百万本の曼珠沙華

2016年09月27日 | ポエム
巾着田の曼珠沙華が五百万本だ、と昨日書いた。
審議のほどは別にして、今が見頃のピークであることは論を俟たない。
まさしく、絨毯のように大地を席巻している。

巾着田というカンバスは、朱に彩られている。



この場所は西武線、高麗駅から徒歩15分ほどの所にある。
ゆっくりと歩いて15分である。



途中には、旧蹟もあってなかなかに楽しい。
その一つは、この水天の碑である。



申し訳程度に、曼珠沙華が咲いている。
それも良い。

巾着を包む川には、主の如きアオサギが闊歩している。



人を恐れぬ風情が、良い。
この川には、カワセミも営巣する。

豊かな自然の中に、在る。







「地に燃ゆる五百万本の曼珠沙華」







せっかく行ったのだから・・・吟行句をものにしなければ詰まらない。
とはいえ、なかなかに難しい。
一句に詠み込みたいキーワードは・・・。

曼珠沙華
五百万本
巾着田

欲張りすぎである。
やはり、巾着田は詠み込めなかった。
中七が、八文字になってしまった。
けれど、「の」を入れないと五百万本が生きてこないし、五百万本が何なのかも分からない。
従って、こうした組み立てにしたのである。

また「の」を入れることで、巾着田であると知らせるのである。



考えるだけでも楽しい。
俳句としては、駄句だけれども感動は残しておきたいのである。

それにしても、巾着田の曼珠沙華は今日で終わり。
粗とした彼岸花を見つけた場合、詠むこととしたいのである。



    荒 野人

曼珠沙華

2016年09月26日 | ポエム
満願の曼珠沙華、である。



誠に満願としか云いようもない。
謳い文句では、500万本の曼珠沙華とある。

木々の根元から、すっくと立ち上がる曼珠沙華である。



これほどの見事さは「艶やか(あでやか)」と表現するのが、ぴったりかもしれない。
だがしかし、この群れようは尋常では無い。
何日か前に、密やかであることを旨とすべしと書いた。
その気持ちは今も尚、変わっていない。







「彼岸花辿る地の果て地の尽きる」







だがしかし、この巾着田の曼珠沙華の中に身を置くと・・・。
なんだか、納得してしまう自分がいる。



環境に身を置くことは、なんと恐ろしいことであるか。
そう、改めて思う。



改めて云おう。
やはり曼珠沙華は、彼岸花なのであって秘めやかに、かつ密やかに秘密の場所に咲いていて欲しい。



     荒 野人