エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

後出しジャンケン・・・って!

2016年06月30日 | ポエム
要するに、上書きしたいという異だ。
それほど有力でもない候補が、後出しジャンケンしたって「何ほどの事」もない。
それが、後出しジャンケンの極意である。

今、日本列島は参議院選挙の真っ只中。
意味不明の言葉が飛び交う。
そんな選挙である。







「涼しさや選挙に出るというかたち」






投票権が18歳からになったとはいえ、全く不毛の選挙と云わざるを得ない。
誰に一票を入れるのか、そんなことで悩むのだ。

この際、私は貝になりたい・・・って!
いえいえ、天道虫になりたい・・・って!
天道虫になって、死ぬる前に、この世の中の大団円を見てみたいのだ。

一体、政党政治で生きて来た団塊の世代は・・・どうしたら良いのだ。
覚悟も何も無くて「家業」としての政治家が横行する不毛さである。

公営掲示板のポスターを見ていて、キリッとそた顔つきの候補者が殆どいない。
じっと眺めていて、一人だけはいた。
その決意乃至覚悟に投票しようと思っている。

その候補者は、後出しジャンケンなどしないであろうと推測出来る。
都知事選挙の候補者がそろそろ出始めた。
今更云っても何だけれど・・・。
この言い方も年寄りっぽいけれど、そう云うしか無いのが寂しい。

上書きは無いからね!



      荒 野人

夏茜

2016年06月29日 | ポエム
夏茜・・・夏のトンボである。
季語としては、三夏。
列記とした夏の季語である。



石に上に止まったり、花穂のてっぺんに止まったり、忙しい。
忙しいけれど、それほど群れて翔んでいる訳では無い。



なるべく、日ざしの淡い場所で止まろう!
そんな幹事である。



ギボシの上とか、或いはノカンゾウの花の上とか。
誠に目立ち易い場所に止まってくれる。

写真も撮り易いのである。

もちろん、池のほとりの比較的涼しい岩の上にいることも多いのだ。







「夏茜由々しき訳のありにけり」







夏茜に、ぼくは夢中になってしまった。



      荒 野人

捩花・・・ねじばな

2016年06月28日 | ポエム
花序が、捩じれながら上へ上へと咲き上がる。
「捩花」の所以である。



丁度今頃、夏野に出ると出会えるのである。
誠に可憐で、且つ痛ましいほど嫋(たお)やかである。

だがしかし、風に揺れると云う事でもない。
確乎として、捩花なのである。







「捩花の捩じれて素直カノン聴く」






この花が咲き終わると、そろそろ「スモークツリー」が白いモワモワを豊かにさせていく。
この花も、大好きである。

昨日、街中で出会ったスモークツリーである。
このモワモワをパフにして、化粧する女がいても良さそうだ。



パッヘルベル カノン




きっと、美しくも柔らかな肌に違いない。
エフゲニオネーギンが「我タチアナを得たり」と歌う、アリア。
ぼくも、タチアナを得たいものである。



     荒 野人

緑さす

2016年06月27日 | ポエム
気持ちは、緑さす・・・。
梅雨の晴間だったけれど、日曜日のことである。



やおら、板橋区の赤塚植物園に出掛けたのであった。
ここは、珍しい草木が多い。
とりわけ「万葉園」では、楽しませて頂ける。
万葉集の歌とともに、植物を愛でる事が出来るのである。



小高い丘を、そっくり植物園にしている。
かつて、ここには寺院があったと聞く。
同時に赤塚丘陵の一画にあって、坂道のある街である。
東京大物も、この植物園の隣である。







「緑さす面影探す雨の径」







黄色い花は、ノカンゾウ。

前にお知らせしたけれど、かの冒険家「植村直己」さんの墓もある。
緑さす、地域であるのだ。



植物園の石の上や、ギボシの上に「夏茜」が憩っている。
夏茜は、三夏の季語である。

夏茜が詠めたら、ブログに書き残したいと思っているのだ。
けれど、句は詠めない。
茜・・・秋と云う先入観年を切換え上書きして詠まなければ・・・。
そう思っている。



      荒 野人

今月の句会

2016年06月26日 | ポエム
第四金曜日が、その月最後の句会である。
24日、その句会が終わった。

句会は、いつも気分を昂揚させてくれる。
やはり「座の文学」であるのだ。



24日の句会は、俳句結社の主催からの選評が頂ける。
ぼくは、その句会に参加して未だ3回目。
先月には、主宰の句集を直接頂いた。

誠に率直な選評をして頂ける。
この句会の投句は、3句。
野人の句には、3句とも点数が入った。
一つの句は、その日の全句の中で最高点でもあった。


6点句 主宰の選無し 句会のメンバーから天賞4点
「うすれゆく記憶の重さ夕蛍」


3句のうち、主宰からは一つしか選んで頂けなかった。
何故なのか?
それを考える事も楽しい。
それこそが、俳句の勉強であり句会なのである。

自己満足の句には、何処の句会でも点数は入らない。
見たままに、愚直に詠んだ句こそが評価される。
俳句は下手であっても良い。
人の心に沁み込まない。
そうでなければ、人を感動させないのである。

句会後、ぼくは主宰の句集を差し出し署名を頂いた。
主宰は、とっておきのモンブランの万年筆でサインをした。
何か、いわれのある万年筆らしかった。
モンブランと云えば、黒が定番だけれどそのモンブランは淡いピンクであった。



主宰の、白い指に柔らかく握られたモンブランのペン先が句集の扉を滑った。
素直な、良い字であった。
署名と同時に、句集の中で一番ぼくの気に入った句を書いて頂いた。

「滑らかに声の出る日よ花の散る」 和田順子

声楽を学んでいたぼくとしては、声と自然の営みを結びつけたこの句に素直に感動したのである。
俳句は、難しい事を書く事ではない。
素直な気持ちにならなければ、詠めない句である。



因に、モンブランはぼくも大好きな万年筆である。



これは、例外的に使っている「ウオーターマン」である。
八年ほど前、韓国の済州島の空港で買い求めた。
妻と子が、ペ・ヨンジュンのポスターが欲しくて買い求めたのであった。
この万年筆を買えば、ポスターが頂けるポイントになったのである。

だがしかし、怪我の功名・・・書き味の良い万年筆である。




       荒 野人