エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

桜紅葉

2014年10月31日 | ポエム
桜紅葉・・・。
何という美しいオマージュであろうか。

日本人の精神世界の豊かさに感嘆するのである。
心に映しだした、桜の葉の紅葉あるいは黄葉。



その都度、言葉を当てはめていく心の作業。
泣きたいほど美しいではないか。





~里の秋~ 芹 洋子






里が赤く染まるころ・・・そう桜の葉も赤く色づくのだ。
桜紅葉は、たとえ一葉でも、目に飛び込んでくる。

鮮やかだからだ。
思わず、カメラを向けてしまう。







「桜紅葉光と影の移ろえり」







桜紅葉は、若い桜の木ほど良い。
葉を落とさず色を変えてゆく。
老いた・・・ぼくのような桜は堪え切れず紅葉する前に、葉を落としてしまうからである。



桜紅葉は改めて言うまでも無いけれど、青空で見てほしい。
より美しくなるのだ。



      荒 野人

秋夕焼

2014年10月30日 | ポエム
秋の夕焼けは、ひときわ物寂しい。
その物寂しさは、寂寥だとか沈鬱だとか・・・いわゆる二次元の世界の出来事によって立っているのでは無い。
次元を越えた、精神世界に立脚している。

昨夕、夕焼けの色合いを写そうと思って外出したのである。



何と!いつの間に、これほど電線の多い町になってしまっているのだろう。
家の側には、田畑があって、少し林があって自然が残されている。
そんな風に自惚れていたのは、ぼくだけだったのだろう。

そう思うと、二次元的に憂鬱になってくるのである。



夕焼け小焼け




思いなおして、団地の中の空の広い場所に・・・。






「秋夕焼葉はそれぞれの色をなし」







秋の夕焼が、饐えてゆくのは見ていて寂しい。
だからと言っては可笑しいけれど、夕焼けが終る前に帰宅する。



その所行も寂しい。
寂しさが秋夕焼なのである。
秋夕焼は、逢魔ヶ時を引き立てる。



人が鬼と共生していた時代。
平安時代もそうである・・・。
「逢魔ヶ時」という概念は無かっただろうと思う。
魔ヶ時は、人の内面世界にこそ拠って立つからである。







     荒 野人

秋薔薇

2014年10月29日 | ポエム
あきそうび・・・である。
薔薇とだけ言えば、夏。



ピンクの憎い色合いである。
秋薔薇は、いかにも脆い。
脆いけれど、その嫋さの風情が良い。



薔薇園をそれほど華やかにしないけれど、個々が自立しているのだ。
その演舞が良い。







「匂い立ち枯れそうなほど秋の薔薇」







秋薔薇の蕾は、本当に開くのだろうか?
と、不安になったりする。

その頼りなげな、そこはかとない存在が素敵である。



かてて加えて、かくれんぼしている風情も感じさせられるのである。
けれど・・・。



黄色の花は、いつだって目の疲れを癒してくれる。
とりわけ、薔薇の黄色は秀逸である。

今日の最後は、花言葉。
(赤)「愛情」「模範」「貞節」「情熱」
(黄)「嫉妬」「不貞」
(白)「尊敬」「私はあなたにふさわしい」
(ピンク)「上品」「愛を持つ」「しとやか」
(朱赤)「愛情」
(薄オレンジ)「無邪気」「さわやか」
(蕾)「愛の告白」(葉) 「希望あり、がんばれ」(トゲ)「不幸中の幸い」
となっている。

けれど、ぼくは「あなたのすべてはかわいらしい」という花言葉が好きである。





        荒 野人

昭和記念公園の赤蕎麦の花

2014年10月28日 | ポエム
昭和記念公園の赤蕎麦の花は、そろそ見頃を迎えるのである。
ぼくは、30日に句友とともに出かけることにしている。
楽しみである。



今日お見せするのは、従弟と出かけた時の画像である。
下見といった感じの遊山であった。

ここは砂川口の直ぐそば、コスモスの丘の横である。



しきりに写真を撮っている初老の御婦人がおられた。
聞くともなく、話しかけて来て言う。
「去年の方が綺麗でしたよ。気候のせいかしらね~。花の背が随分低いわ。」







「蕎麦の花ヒマラヤの風ルビー色」







言われてみれば、花の背は随分と低い。
屈まなければ、良い写真が撮れないといった風情である。

三脚を駆使している、にわかカメラマンたちもしゃがみこんで撮っている。



だが・・・そうであったとしてもこの赤花は可愛らしい。
色合いは、まさしくルビーである。




       荒 野人

昭和記念公園のススキ

2014年10月27日 | ポエム
昭和記念公園は、基本的に余計な手を加えていない。
従って、ススキが様々なシーンで視野に入る。



とても嬉しい事である。



わんさかと茂るススキ。



ススラスッと屹立するススキ。
どのススキの在り様も、心に素直に入ってくる。

ススキの素直さが、曲がっていないからである。







「賢さの証とばかりススキの穂」







青空こそが相応しいのだ。
暗いじめっとした場所には、ススキは似合わないのである。



また、池が上手い具合にある祈念公園ならではの景色も捨て難い



池の面の揺らぎが、ススキほど似合う植物もそう多くは無いのだ。
面の揺らぎが、ススキの揺れる具合と相俟って秋を演出するのだ。

見る人によって、ススキの穂は重かったり軽かったりする。



また、妙に精神をくすぐる事もある。
ススキに託した歌も多いのである。

その理由は、こうしてススキだけしっかりと眺めているとなんとなく理解できるから不思議である。
その何となくという、緩さが素晴らしいのだ。



      荒 野人