エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

水仙という妖しき立姿

2013年02月28日 | ポエム
水仙、しばしば人に例えられる。
立ち姿、香り、さらには、そのたおやかさが余りに煽情的に過ぎるからであろうか。

花畑に近づくと、噎せ返るような匂いに包まれる。
しかして、その色、形である。
誰もが恋する、純真な一人になってしまう。

ここ葛西臨海公園の水仙は、日本水仙である。
百花繚乱というけれど、ここでは一花繚乱である。
十分見応えがあるのだから、それで良いのである。



水仙はアテナイの神である。
ギリシャ神話に登場する。

ぼくは水仙にフローラを見る。
けれど水仙はナルシサスである。
学名の「Narcissus」である。



Narcissusという学名は、ギリシャ神話に登場する美少年ナルキッソスに由来する。
神話によると、ナルキッソスは、その美しさにさまざまな相手から言い寄られたものの、高慢にはねつけ恨みを買い、ついにはそんな彼への呪いを聞き入れた復讐の女神ネメシスにより、水鏡に映った自分自身に恋してしまったのである。
水面の中の像は、ナルキッソスの想いに決して応えることはなく、彼はそのまま憔悴して死ぬ。
そして、その体は水辺でうつむきがちに咲く水仙に変わったというものである。
だからこそ水仙は水辺であたかも自分の姿を覗き込むかのように咲くというのである。

水仙はナルシストのシンボルなのである。

水仙は欧米で「希望」の象徴とも言われる。
希望に満ち溢れ、甘やかな愛される存在なのである。

葛西臨海公園では、渚からほんの少し歩くと群生地に至る。
人が植栽したのだけれど、あたかも神話の時代からそこで咲いているかのように水仙に溢れている一画である。



人は、この水仙を文字にして楽しんだ。







「水仙の目線の先の儀する波」



「渚にも波打ち寄せる春を載せ」







俳人はとりわけ読んだ。





水仙や白き障子のとも映り
        松尾芭蕉

水仙や寒き都のここかしこ
        与謝蕪村

水仙の香やこぼれても雪の上
       加賀千代女

其のにほひ桃より白し水仙花
        松尾芭蕉





この水仙の海風に堪える姿は尊とい。



波打ちよせる浜は、悠久の未来に続くかと錯覚してしまうほどである。



嗚呼、波に載せてぼくは悠久に未来に旅立ちたい。



                   荒 野人

秩父神社への吟行

2013年02月27日 | ポエム
秩父神社の参集殿で第九回秩父俳句大会が行われる。
まだ大分先(5月末)のことだけれど、投句の締め切りは3月20日である。



秩父神社とその一帯を歩いて、現場感を知らなければと、吟行に出かけたという訳である。
秩父は「祭りと神の郷」である。



神の郷の大きな理由は、秩父神社には全国の「一之宮」75座がおわすからである。
この社殿は全国に例が無い。



稀有なのである。

また、宝登山には日本武尊の神話が残されてもいる。
東国平定の軍団が通過した地でもある。



ここは宝登山神社の奥宮である。

秩父神社の本殿のぐるりには、襖絵ならぬ華麗な彫刻が施されている。



日光では「見猿言わ猿聞か猿」だけれど、ここ秩父では違う。



おしゃべりで、人懐こい猿が「見て言って聞いて」おられる。



実に楽しい。







「春浅し乾いた響き絵馬の音」



「結界を越えて祈るや斑雪」







神域は、パワースポットでもある。



よく晴れた日の午後、本殿の真上に龍が現れた。
雲が龍となって本殿を守護し奉られている。

なんという不思議であろうか。
この日、この龍が消えた後には天侯が崩れて雨模様になった。
寒さが増し、襟を併せる事態となってしまった。



まさしく、祭りと神の郷である。
因みに、この建物が参集殿で句会の行われる建屋である。



       荒 野人

福寿草の確固たる色

2013年02月26日 | ポエム
我が家の福寿草が一輪だけ咲いたのである。
確固たる黄色は、目に優しく春の日差しを吸い尽くそうとしている。

誠に健気である。







「黄色さの春を告げたる福寿草」







何処の家でも満開だと聞かされ、少しばかり諦めていたところである。
この福寿草は、昨年群馬の蝋梅の里で買い求めた一鉢だ。

あわあわと、断固として咲いた昨年の勢いは無いけれど命は脈々と受け継がれている。



この花は、ブルー系のぼくの好きな色合いである。
名前は「セネッテイ」という名前である。
かなり長い間咲いてくれる。



寒風をものともせず、蕾も萌え出る。
春は、色が無くてはならない。



白も清楚で良い。
誰にも染まらず、孤高狷介である。

座の文学、俳句では孤高狷介とは成り難い。
そうありたいなら、山頭火が師である。
あるいは方哉であるだろうか。

からまつの俳句をキチンと学ばなければ、発展は覚束無い。
けれど、俳詩は新たな試みとして続けてみたいのである。
春は曙である。

曙の色と音を聴きに出かけなければ・・・と思う今日この頃である。



       荒 野人

風が吹く時

2013年02月25日 | ポエム
いつまでも北風が吹く。
日本列島の西では春一番が大分前に吹いた筈であった。

けれども、春一番が吹いた地方も北風の襲来に任せてしまっている。
いつまでも、冬の気配である。
だがしかし、今日の北風は雰囲気が少しばかり違った。

北風は、それなりに冷たかったけれど体感する温度は少し高かった。
春の兆し、というエキスが入り込んでいる北風であった。
春の足音が、そっと忍びこんで来ている。

昨日は葛西臨海公園まで出かけたけれど、今日は自宅でのんびりであった。
ねこは炬燵で丸くなる・・・である。
そうこうしている内に、友人から電話があり平和台の駅まで出かけたのであった。
駅上の喫茶店で待ち合わせた。

駄弁って、二月ほど前に依頼された写真を託した。
合わせて、群馬マンドリン楽団のコンサート・マスターの写真を別途焼増して俳句を添えさせて頂いた。






「ひたむきな音との対話春めきぬ」

     コンマスに捧げる  野 人






コンマスのひたむきな音楽への情熱は、胸を打たれる。
音楽の人格形成という作用は、誠に想像を絶する。
同時に「ひたむき」とか「ひたすら」という言葉はこの人のためにあるのではないかとすら思える。



この写真の視線の先には、コンダクター両角氏がいる。

友人と別れ、ぼくは一片の詩を書きなぐった。
強い北風を肌身に感じたからであった。
感じた大気は、しかし優しかった。





風が吹きわたるのだ
かつて

毎年体感しているあの風だ
この年初めて感知したのだった

風が薫風に変身するのは間近だと知れる

木枯しが北風と言われ
北風が南風に変わる
暖かさを認知させると春一番になって
やがて人の心を濡らすのだ

風の囁きよ
サナトリゥムの裏の雑木林を揺らし
葉擦れのモノローグを耳元で話しかける精霊は
あなたを抱きしめる時の
あなたの分泌する匂いだ





マンドリンの音色は、春風のように囁く。
トレモロは秋風のお喋り。
夏の木漏れ日と来る涼風は、コケティッシュな君の微笑み。
冬の風花の軽やかさと予感。

マンドリンは、季節とともに進む楽器である。



     荒 野人

観覧車に乗って

2013年02月24日 | ポエム
葛西臨海公園の観覧車に始めて載った。
載った・・・と書くのはぼくが高所恐怖症だからである。
荷物になった気分で無いと、この高さには耐えられない。

とりわけ、葛西臨海公園の観覧車は日本一の高さの極みを経験させる。







「観覧車春載せ足を竦ませる」







観覧車に、初めて載ったのだけれど・・・時々停まる事があるというのも知った。
それは観覧車から降りる時、安全のために一時的に回転を止めるからであると放送している。

だがしかし、高所恐怖症のぼくにとっては恐るべき時間である。



見下ろせば、人の営みである。
神って、こうして下界を俯瞰しているのだろうか?



見下ろせば水族館。
見下ろせば東関道の太いライン。
見下ろせばディズニーランド。



しかし、見上げる空の美しさは人の特権であるかもしれない。
裸木の赤実は日一日と増す。
春の兆しの確かさは、見上げる事でしか分からない。

一部を切り取る。
その切り取った自然から、四季を身体中で感じる。
そこから詩が産まれ、俳句が産まれる。



嗚呼、美しき哉。



      荒 野人