エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

オリーブの花

2015年05月31日 | ポエム
オリーブの花が・・・。
なんの変哲も無い花だけれど、何故か愛おしいのである。



その変哲も無い花が、あのオリーブ色に結実するのだとしたら、ぼくはこの花から味わいたい。
小粒でいて、存在感は主張する。







「オリーブの花確かに平和匂い立つ」







オリーブの花の花言葉は・・・
「平和」「知恵」である。



頷けるではないか。
平和のシンボルとしてもオリーブは主張する。
更に云えば、オリーブは多様性のシンボルでもある。

欧州には「オリーブの木」という政治党派も存在する。
いわば、この枝止まれ!
といった案配である。

今、その力は減殺してしまった。
何故か、新しい世界の構築に追いついていないからである。
それが、新保守的傾向なのかどうかは定かではない。
昨今の国会の議論は、聞くに耐えない。
高ぶり見下し、而して「新啓蒙主義」と云うべき傲慢の極地。
唾棄すべき事態がある。

しかし、市民感覚や良識が淘汰されてしまってはいけない。
多様性こそが、人類の叡智であるからだ。



       荒 野人

麦の秋

2015年05月30日 | ポエム
刻は今「麦秋」である。
関東平野北部では、ビール製造のための麦が銀波を風になびかせている。

麦の秋だ。



麦が収穫期を迎えて、銀色に実っている。
秋の言葉を充てるのは、収穫の秋という色合いに相似しているからである。







「涯もなき大地の波の麦の秋」







もう、刈り取られるだろうから、この銀波を見る事は出来ない。
寒灯よりも、、関西の方が麦の文化である。

うどん、素麺など麦を使った主食文化は根強い。
寒灯では、麦飯という文化でしかなかった。
麦の文化が育たなかったのだ。



かつては、ぼくの実家でも麦を作っていた。
米の刈り入れの後、麦を蒔いた。

祖母が、麦踏みのような所作をしていたのを微かに記憶している。
それでも、麦飯wp食べた記憶があまりないのである。

あの麦は、どうしたのだろうか?


       荒 野人

緑さす

2015年05月29日 | ポエム
際立った緑と出会える季節である。
新緑である。

重ねても重ねても、緑は緑であるのだ。
間もなく万緑の季節に入ってしまう。
6月には、間違いなく万緑である。



林の中を歩きながら、ぼくは緑で染め抜かれたのである。
大気も、その流れも緑である。

見上げると、ブナの新緑があった。
実に際立った緑である。



この道を歩いた。
誰と歩いたかった・・・?



フっ、そんな野暮は云いっこなしだよ。







「緑さす身体染めぬく空はるか」







緑と云う字は、様々に表記できる。

「緑」「翠」「碧」そして「みどり」である。
名前も、多様性を持っている。
それだけ柔軟なオマージュを醸し出すのである。

みどりは、一個の宇宙であるのだろう。



      荒 野人



薔薇・・・そうび又はしょうび

2015年05月28日 | ポエム
薔薇は「ばら」「そうび」あるいは「しょうび」等と読む。

ぼくは、夏は「ばら」と読む。
冬は「そうび」と読みたい。



赤い薔薇は、情熱的である。
更にいえば、命の「ほのほ」を想起させる。
だからだろうか、赤い薔薇は母のシンボルでもある。



ぼくは、愛する人の薔薇はこの色にしたい。



水の滴る薔薇は、それだけで一個の宇宙である。







「水玉の薔薇の生命の炎かな」







赤と黄色。それぞれが主張するのは「いのちのほのほ」である。
そうであるに違いない。



薔薇を育てると云う事は、いつでも目をかける事。
水やりを忘れない事。
害虫との戦いを放棄しない事。



丹誠込めて育てると云うことである。



薔薇の花が鮮やかに咲くと云う事は、何ものにも代え難い宝物である。



更にいえば、丹誠へのご褒美でもある。


      荒 野人

朴の花

2015年05月27日 | ポエム
朴散華・・・とも。



名句が多い。
朴散華・・・というオマージュに触発されるのであろう。


「一瓣散り一瓣朴のほぐれゆく」
          河東 碧梧桐

「朴散華すなはち知れぬ行方かな」
      川端 茅舎

「朴の花暫くありて風渡る」
         高野 素十

朴の花の花言葉は「誠意ある友情」である。
らしい・・・ではないか。







「明日また新しい風朴の花」







かく云う野人もまた。朴散華のオマージュの虜である。




   荒 野人