エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

秋の海

2017年09月30日 | ポエム
秋の海は、寂しい。
寂しいけれどキラキラしている。

トワ・エ・モアが「いまはもう秋 だれもいない海」と唄ったけれど・・・。



確かに、うら若き女性が一人汀を歩いていた。
絵になる風景であった。



汀は、きらきらと日の斑が遊んでいる。
秋晴れの一日であった。
場所は、葛西臨海公園である。
ゆっくりじっくり、一人吟行である。



入口の、そう云うよりも駅を出た広場の噴水に虹が架かった。



暑さは頃合いなのだけれど、水遊びをするには涼しい。



でも、若いカップルは靴を脱いで遊んでいた。



ぼくは、海。
海の日の斑を見たいから、出かけたのであった。

家族連れも多く来ている。
子どもは、海浜が好きである。







「浜ゆけば日の斑と遊ぶ残る海猫」







残る海猫、である。
これは秋の季語である。
海猫、だけだと夏の季語。
海猫は、ゴメと読みたい。



この人工海浜。
でも、シーグラスを一つだけ拾った。
日の斑とシーグラスの取り合わせは、繪硝子の吟行で投句しようと思っている。

暫く呻吟しようと思うのである。
鎌倉への下見の時は、七里ケ浜の海は荒れていた。
吟行当日は、晴れて暮れるだろうか・・・。


      荒 野人


東慶寺の風景その2

2017年09月29日 | ポエム
昨日に続いて、二日に渡って東慶寺を書きたい。
茶の花が咲いていた。



この花は、茶室に良く似合う。
東慶寺には、説明もなく表示も無いけれど茶室がある。
何故なら、待合とおぼしき建家が見えるからである。



佇まいは、誠に錆びている。
そんな風情になっているのは、やはり歴史が成せるのであろう。

東慶寺は、駆け込み寺であったからだ。
慎ましやかな建家が小高い丘にあって、誠に奥深い寺域を持っている。
墓所に至る坂道と云い、崖に密生するイワタバコと云い、雰囲気も又奥深いのである。



ススキが枝垂れつつ、秋の深さを表してもいる。







「秋の寺まつろわぬ者駆け込めり」







杜鵑は、咲き頃であった。
これからどんどん、開いてゆくであろう。

秋明菊の風に揺れる様は、嫋やかであった。



この写真は,昨日もお見せした東慶寺の山門に至る石段である。
数えたのだけれど、32段あった。
石段を駆け上って、山門までは駆けて3歩。
歩いて6歩。

山門を潜らなければ、駆け込みにならない。
連れ戻されて痔舞う、のである。
亭主とは別れられないのだ。

女性は必死だったであろう。
裾を乱して石段を駆け上がり、山門まで3歩駆けた女の強さを思う。

秋が深まっている。
来月、この鎌倉を舞台に結社の秋の吟行句会が行われる。
「繪硝子」の行事である。


        荒 野人

東慶寺の風景

2017年09月28日 | ポエム
朝方、急に思いついて鎌倉に出かけた。
目的地は二つ。
東慶寺と七里ケ浜の海。



東慶寺は、知る人ぞ知る「駆け込み寺」である。
アジール、である。
故・井上ひさし氏が「東慶寺花こよみ」という作品をものしている。
井上ひさしらしい作品である。
東慶寺の始めは、尼寺であった。



寺域内にある仏は、どれも穏やかなお顔をしておられる。
野仏であろうとも、それは同じである。

この寺の特徴は、四季折々の山野草である。



紅白の萩が、踏石の上に枝垂れている。
その花の後ろには黒塀、である。



花芒ですら風情がある。







「駆け込みて倹しき山門秋寂し」







なんという風情だろうか。
ぼくは、この東慶寺だけでおよそ2時間を費やしてしまった。
慎ましい寺院である。

明日もう一度、この東慶寺に触れたい。
丁度、吾亦紅が美しいのであった。



       荒 野人

秋の空

2017年09月27日 | ポエム
残暑が・・・。
昨日で終わり、でしょうか。
昨日が残暑と云っても、湿度が低いのであろう爽やかである。

従って、夕焼雲が綺麗である。
そのグラデーションは、心惹かれるものがある。

とはいえ、昼の空は優れて美しい。



平仮名のような、と詠んだ句友が居る。
ぼくの尊敬する俳人である。

秋の雲を平仮名で書いたようだと見破った視座、それが見事である。



秋らしい、ススキを映じてみた。
花芒である。







「嫋やかな視線の先の秋の空」







そよぐ姿に、しなやかさを感じるのである。
嫋やかさ、かもしれない。

けっして豊満ではない、むしろかそけき繊細さである。



        荒 野人

昼の虫

2017年09月26日 | ポエム
今日の昼の虫は「ハイイロチョッキリ」という虫である。
団栗に卵を産みつける。
産みつける団栗は、青々としていなければならない。
孵化した幼虫が、団栗の実の部分を食べるからである。
青い実は、茶色になって落ちる実に比べれば遥かに柔らかいのである。



これがハイイロチョッキリである。
彼は、卵を産みつけるだけでなくその実の付いている枝を切り落とす。



団栗の木の下を歩いてみると良い。
必ず、こうなっている枝を見つける事が出来る。







「産卵の痕青あをと昼の虫」







命の営みだから、許容範囲にある。
無為に枝ごと落としている訳では無い、のである。

国連を舞台に無意味な言葉の云い合いを繰り返す大人より、遥かに生産的である。
命の連環を思えば、この自然の営みは美しい。


     荒 野人