エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

五百羅漢に祈る

2011年10月31日 | 日記
岩手県遠野市綾織町新里の山中にひっそりとある。
その五百羅漢は、ただ静謐のなかにあって沈黙を続けている。

殆ど人も訪れない山中である。
ましてや、晩秋の落ち葉を踏みしだいて上らなければならない。



苦行である。
道なき道を上るのである。

岩がゴロゴロしているのだ。
実はこの岩に、羅漢さまが刻まれている。



誰が供えたのか賽銭があった。
和尚への賽銭か、五百羅漢への供えなのか判然としないけれど、日本人の「そうしなければこの場を去り難い」との優しさが滲んで見えるのである。



まず、この橋を渡る。
枯葉に埋もれそうな橋である。



ここがこの橋を架ける必要を生じた源流である。
岩の祠のようにも見える。

何か得体の知れないものが潜んでいそうな気配であった。



この上がほぼ頂上であるけれど、ぼくたちは「五百羅漢」が何処にあるのか探してしまった。
五百羅漢のイメージが固定してしまっているからである。

立体的な羅漢を考えてしまっていたからである。
それは間違いであった。

それと同時に、山深くあって時おり鳴く鳥の声が聴いた事の無いような声であったからである。
まるでそれは怪鳥のようなおどろおどろした鳴声であった。

ある種の恐怖感があって、視線は上だけに固定されてしまっていたのであろう。



実は足元にこそ、羅漢さまは居られたのである。
岩に線刻画として描かれていたのである。



かつて京の都で鬼が人間と共生していた頃「鵺(ぬえ)」が夜な夜な鳴いた。
「鵺の鳴く夜は怖ろしい」のである。

そんなイメージが頭を過ぎった。



だがしかし、遠野における天明の大飢饉による餓死者を供養するために、天明3年(1765年)に大慈寺の義山が山中の自然石に500体の羅漢像を刻んだものと伝わるのである。



死者の霊魂は既に昇天しているのであって、ここには義山和尚の思いが沈殿しているのみであるのだ。



羅漢像は立体的な彫刻ではないのだ。



この場所に、ぼくたちは祈りを捧げつつ下山したのであった。
なぜかしら、身も震えるような畏怖とクマに対する物理的な恐怖が激しく襲いかかって来たのである。



一番上にある「観音様」のような岩がぼくたちを見下ろして笑っていたのであった。

東北の被災地には、いま義山の分身が舞い降りている。
現在の義山もまた崇高である。




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 荒野人

デジブック 『岩手を歩く』

2011年10月30日 | 日記
諸行無常の響きを満腔で感じる旅である。



一面破壊されたみちのくの海岸である。





デジブック 『岩手を歩く』






この現実をしっかりと捉える事が求められるのだが・・・。
例えば、東電。
例えば、国会。

既に風化を狙っているのか!と思える動きがある。
被災地から遠く離れているぼくたちも、この現実に寄り添って生きねばならない。



放射能の恐怖を日常の生活で感じなければならない。

そうした世紀をいまぼくたちは迎えている。




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 荒野人

みちのく大変・・・舟と車の瓦礫の山

2011年10月29日 | 日記
昨日も「大変」という形容詞を使った。
今日も「みちのく大変」なのである。

この大変という形容詞は、そもそも富士山宝永大噴火の折り、江戸までもが降灰被害にあって富士吉田はもとより八王子などの地域では壊滅的被害を受けたのであって、農民が「富士山大変」と言った歴史を継承しているのである。
宝永大噴火は宝永4年11月23日(1707年12月16日)に始まり12月8日(12月31日)に終焉した。
この期間噴火は一様ではなく最初の4日は激しく噴火し、小田原から江戸まで広い範囲で降灰の被害にあったのであった。


1・・・第1火口  2・・・第2火口   3・・・第3火口   4・・・宝永山である。

噴火の始まる49日前の10月4日(10月28日)に推定マグニチュード8.6〜8.7といわれる宝永地震が起こったのである。
この地震は定期的に巨大地震を起している2箇所の震源域、すなわち遠州沖を震源とする東海地震と紀伊半島沖を震源とする南海地震が同時に発生したと考えられている。
地震の被害は東海道、紀伊半島、四国におよび、死者2万人以上、倒壊家屋6万戸、津波による流失家屋2万戸に達したとされているのである。



歌川広重「東海道53次」の浮世絵である。
53次名所絵図第14・原、である。

宝永大噴火は、まさに「大変」なのであった。

今日は舟と車の大変である。
津波の猛威、自然の人智を超えた破壊力の凄まじさを実感して頂きたいのである。
普段の暮らしの中で、舟も車も人の力を遥かに凌駕する。

だがしかし、自然はそうした思いを数段上回って瞬時に巨大な力を出すのである。
自然の力は、時として万力のようでもあるけれど・・・時として瞬間のエネルギーの発露を示す破壊力を有するのである。
これが怖ろしいのである。



タイヤの山である。
この山が連なっているのである。



考えられない毀され方である。
この車もポツンと一台、根こそぎ津波に持っていかれた街中に放置されてあった。



埠頭である。



その埠頭の横には車車車・・・。
車の中に、舟一艘。



近ずくと、こんな感じである。



生活を支えてくれた車たちである。
愛おしく、悲しい。



舟である。
ここまで破壊されてしまうと、最早再生は出来ない。



破壊された舟が、累々と連なる。



漁具も破壊されたまま放置されている。
なんという、悲惨!



沈められた船の舳先である。
港を塞いでしまっている。

これこそが、みちのく大変!
である。



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 荒野人

陸前高田の大変

2011年10月28日 | 日記
瀬戸内寂聴師がこの町で法話を説いた。
瀬戸内師は、見事な迄に円熟されているのを実感するのである。

今朝はNHKのBSで「代受苦」の話をされた。
あの大震災で逝った人たちが、いま生きている人の苦しみを引きうけて逝ったという事である。
優しい心だ。

とまれ、陸前高田の海沿いは、全て破壊されてしまった。



加えて、地盤沈下によって海水や降雨が町中にたまっている。



ここは池でもなければ海でもない。
3,11以前は、町並みが存在した場所である。
水のぬ向こうに見える、コンクリートの建造物も全て人は住めないし、現実住んではいない。



まだまだ瓦礫も完全には整理されていないのである。



海海岸線から山際まで、完全に破壊されてしまったのである。
おそるべく自然の破壊力であって、人智を遥かに超える。
人は自然と共生しなければならない・・・などといった戯言は無力であることを知らされるのだ。



これがあの松原のただ一本残った松の木である。
既に枯れかかっている。

壮大な海岸線に見せていたあの松原はどうなるのだろうか。
これもまた、復興の大きな課題である。



なにも無い場所に・・・何もかも津波に持っていかれた場所に集められている瓦礫である。



車のスクラップである。
この一台一台に、陸前高田市の市民の思いが詰まっているのだと・・・。
そう思うと、悲しい。

まだ集めきれていない車の残骸は多い。







復興の槌音には程遠いではないか。



まだまだこれが現実である。
陸前高田の現時点での被害状況を記しておこう。

   総人口 24,246人 住基人口 ※平成23年3月11日現在
   生存確認数 22,273人 ※平成23年8月19日現在
   死亡者数(震災分) 1,487人 市民で身元が判明し死亡届の出された人数
     〃 (その他 146人 病死、事故死など
   行方不明者数 264人 安否確認要請のあった人数
   確認調査中 76人
       1,548人(市外死亡者を含む)※平成23年8月19日現在

   被災戸数
   全 壊 3,159戸
   大規模半壊 97戸
   半壊 85戸
   一部損壊 27戸
   計 3,368戸

   被災世帯数
   総世帯数 8,068世帯 ※平成23年1月31日現在
   全壊 3,803世帯※平成23年6月21日現在
   大規模半壊 118世帯
   半壊 116世帯
   一部損壊 428世帯
   計 4,465世帯

である。



ただただ一日も早い復興を期待し、ぼくたちも力を尽くす必要があると痛感するのである。

従弟と二人して車を走らせたのであるけれど、従弟は涙を流した。
ぼくは、そんな従弟を叱った。
「怒れ!」と。

だがしかし・・・従弟は優しい心根の男である。





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 荒野人

美しくもあり岩手の旅

2011年10月27日 | 旅行
岩手は美しい。
海岸線は津波に根こそぎもっていかれたけれど、内陸部は地震による道路工事を我慢すれば充分に旅を楽しめる。
これからはベスト・シーズンである。



山道も美しい。
車で走っていると、こんな池にも出会える。

この池はきっと、もっともっと黄葉が進んで綺麗になっていると思う。



一晩泊まった「龍泉洞温泉ホテル」では、こんな不思議と出会った。
夕食で、地ビールと地サイダーをいただいたのだけれど、これは久しぶりに美味かった。

不思議は泊まった部屋である。
311号室。
被災の日時、3,11である。

発災の日を決して忘れる事は無くなった。
これは、ぼくが幽明を境にする日まで追悼の日時である。



京都の赤色とは違うけれど、みちのくの赤は美しい。



山道にはこんな色合いもある。
一本だけ黄葉が進んだ。

「おいおい一人で勝手に前を行くなよ!」
そんな風なおしゃべりが聞こえてくるではないか。


   ひとりだけ黄葉すすめ叱られた      野人


ってか!



山の道は味わい深い。
一日歩いていたい、そんな思いに捉われたのである。
この道は「新 奥の細道」と看板にあった。



けれど、それは止めた。
なぜなら、ここはクマが出没するという看板があったからである。

ぼくたちは、約1時間この場所にいたけれどぼくたち以外の人影は見られなかった。
車もあまり来ない山の脇道である。

看板表記は「東北自然歩道」である。
舗装が綺麗になっているけれど、それは強い風の所業である。
少し下がると、道路は落ち葉で埋め尽くされていて、落ち葉で車が滑るほどであった。

ここは、山の中の「五百羅漢」の場所である。





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 荒野人