エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

デジブック 『巾着田の彼岸花』

2009年09月30日 | 日記
ぼくは毎年ここ巾着田に来ている。
何よりも、この圧倒的な花の舞が感動をくれるからである。



白い花は突然変異である。
貴重なのである。



高麗川で囲まれた花畑だ。
川に映える空の青が美しいではないか。



川沿いであることがよく分かるではないか。
この川には野鳥が多く飛来する。
翡翠(カワセミ)も飛来するのである。
小魚が豊富で水も綺麗だからだ。


デジブック 『巾着田の彼岸花』




圧倒的な花たちにぼくはのめりこんでしまう。





花に酔うのである。
酔ってしまうのである。







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                    荒野人

ススキの穂が輝く時

2009年09月30日 | 日記
ススキ。
芒とも書くし、薄とも表記する。

薄田泣菫(すすきだきゅうきん)という詩人がいた。
土井晩翠、島崎藤村らを継ぐ浪漫派を代表する詩人である。
彼は、芥川龍之介を見出した慧眼(けいがん)であった。



ススキは近目にも遠目にも耐えられるのである。



今の時期だからこそ、青と白いススキ。
あるいはまた銀色に輝くススキが見られるのである。
麗流なススキである。



これは都会のススキ。
風になぶられている。

田舎のススキは河原で風に吹かれているのである。
このススキが枯れると「俺は河原の枯れススキ」となるのである。



こうしたススキが僕には懐かしい。
都会のススキはそれなりに美しいと思うし、それなりの感慨はあるのだけれど、何だか人の植栽したものという景色が厭らしく感じられるのである。



たとえ数本でも良いのだ。



こんな感じが素敵である。
疎(まば)らであっても自然なのである。





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                  荒野人

化野念仏寺を行く~デジブックで体感する

2009年09月29日 | 旅行
念仏寺・・・実に素直なネーミングである。
寺全体の雰囲気から言っても、ぴったりだ。



ここには水子地蔵が鎮座している。
信仰の原点であろうか。



右側の石像は、木魚に寄りかかる無邪気な赤ちゃんである。



この像に親は涙するのかもしれない。

この念仏寺を去る時の坂道である。



雰囲気のある道である。
この寺の裏手には、よく手入れされた竹林がある。



気持ちの良い小道だ。
ここをゆっくりゆっくり歩けば、気持が平らかになっていくのである。
上を見上げれば、竹林の隙間から木漏れ日のような小さな空が見えるのである。





デジブック 『化野念仏寺を行く』



短めのブックとなっている。
念仏寺を散策されますように!

そして、往古の時代に思いを馳せ、亡くなったあなたの家族に合掌を。




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              荒野人

祇王寺~平清盛の愛した白拍子

2009年09月29日 | 旅行
祇王寺は、奥嵯峨の小倉山麓の竹と楓(かえで)に囲まれた小さな草庵である。
祇王寺のギの字は、本当は示す扁に氏と書くのだけれど、残念ながらその書体が見つからないのだ。
従って、この祇王寺で勘弁されたいのである。



これは祇王寺の手前にある観林寺の苔むした石積である。
これを右手に見て、坂道を上りつめた場所に祇王寺が佇んでいる。

観林寺の山門を過ぎた時点で俄(にわ)かに風が冷たくなる。
霊域に入ったことを知らされるのである。

現世のぼくたちは妄(みだ)りに結界(けっかい)を犯してはならないのだと知らされる。



ここを左に登っていくと山門に至る。瀟洒な作りで好感が持てるのである。



萱の塀が心地よいリズムを刻んでくる。
心が鄙(ひな)びてくるのである。

草庵・・・まさに庵と言うに値する萱葺き屋根の一棟のみの尼寺である。



草庵の玄関を入ると、吉野窓が目に入る。
美しい窓である。



平清盛の愛した白拍子、祇王と祇女の悲しい物語をこの草庵は語っているのである。


仏壇には本尊大日如来、清盛公、祇王、祇女、その母刀自、仏御前が安置されている。
祇王、祇女の像は鎌倉末期の作である。
作者不詳だ。

この庵の庭は、苔が一面に敷き詰められている。
この緑の絨毯に紅葉した紅葉が舞い落ちる様は妙である。



初秋がこんなに情緒豊かなのだから、季節を鮮明に変えるに違いないのである。



紅葉の時期に再訪したいものである。






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ぼくの実在を問う

2009年09月28日 | 日記
ぼくは、ぼくの実在を改めて問い直してみたい・・・。
と思っているのだ。





           実在を問う


      湧き上がる光線がときめき
      ぼくは光線の眩しさにおののいた

      ぼくはいまどこにいるのか
      それすら分からない

      存在と実在の狭間で
      ぼくはぼくの形を捉えきれないのだ
      テーゼは彼岸の彼方へと過ぎ去り
      アンチテーゼは四分五裂となって散華した

      止揚の手がかりは限りなく雲散無消した
      人はこれを絶望と呼んだ

      絶望は希望の未来永劫に渡る抹消である
      復活はあり得ないのであって
      そこには漆黒の闇が無辺に横たわっている

      絶望の川は彼岸がなければ存在しえない
      絶望とはあらゆる希望の纖滅であり
      あらゆる可能性の全否定である

      一個の無辺が誕生するまでは
      何億光年も飛び続け
      元素の誕生を希求するのだ
      ひとは太古
      元素であったのだから

      そうプラチナのような輝度と堅牢さが
      時空を越えて活き続けたのだ
      漆黒の闇から
      ぼくは生還する
      ぼくは新たな活きる術を体得しつつある
      ぼくはとうとうと流麗に生きる

      ぼくはやがてビッグバンによって
      実在の岸辺に立つのである







野ボタンである。
この紫色は高貴である。

袈裟の色で言えば、高僧の着衣に値するのである。




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