エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

冬枯れの街へ・・・同輩よ書を捨てる覚悟を持て

2010年12月31日 | 日記
今日は大晦日である。
いよいよ押し迫ってきました。

晦日、上野で友人と会った。
寒さで震え上がるような気候、モノクロな風景の中に色彩が点じている。



落ち葉に埋もれる公園は羨ましい。



椿に降り積む落ち葉が、吹き飛ばされることも無く積っている。



モノクロに点ずる赤色が一際鮮やかに見えるのである。



上野のお山は沈黙の中にある。
崩れしままの石垣である。

石垣は、寺社が武装していた時代の名残であるのか・・・。
幾百年の時間をただ見つめている。

維新のアームストロング砲の轟音も、志士たちの叫びも全て吸収して沈黙を決め込んでいる。



見上げる空である。
上野のお山は、歴史のブラック・ホールである。



山茶花の白き花弁にきみを思うのである。



越前水仙が乱舞する。
寒いからこそ咲けるのである。



同輩よ、書を捨てよ。
同輩よ、くだらないプライドを捨てよ。

そして街に出で、周囲を見渡せよ。
美麗なる景色も、セクシュアルな景色も、Etc Etcである。



コケティッシュなきみのお尻にカラスが糞を垂れている。
カラスというのは、とんでもない輩である。






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                     荒野人

時ならぬ花が開いている・・・花豆王

2010年12月30日 | 
寒波が北の方角から下りて来て、日本列島は寒さに震えているのである。
寒さは、東京でも同様であって、ぼくはネック・ウォーマーと帽子を愛用している。



空には引っ掻いたような飛行機雲が一筋・・・スカイブルーの天を切り裂いていた。

時ならぬ花・・・



なんと「花豆王(ハナズオウ)」である。
枯れて葉の一枚も残っていない幹の途中にヌッと咲いているのである。

季節外れではあるけれど、ビルとビルの間の陽だまりに佇(たたず)むハナズオウである。
まさに、ショッキング・ピンクである。



寒いと言ったって、モクレンの花芽が膨らんできている。
繊毛のような、産毛のようなモワモワに包まれてヌクヌクと膨らんできているのである。



蔓薔薇が鮮やかに咲いている。
甘い香りを漂わせている。

薔薇独特の甘い香りである。

夜、少し高い場所から新宿副都心を望んでみた。



空気が澄んでいるからであろうか、高層ビル群が望めた。
やはり、空気が冷たいのである。

明日は晦日、明後日は大晦日である。

年賀状を書いている。
南アルプスの夕景を撮った写真をベースにした。

元旦に改めて年賀状をアップするつもりである。
この一年のお付き合いに感謝申し上げ、皆様にとって来る一年が美しいものである事を願わずにいられないのである。






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押し葉は、まるでポテト・チップスのよう

2010年12月29日 | ポエム
あまりの鮮やかさに、思わず拾いあげ文庫本のページに挟み込んでおいた落ち葉がハラハラと散った。
ケヤキ、ハゼ、モミジなどの紅葉の落ち葉である。





        落ち葉を押す


      落ち葉が舞い降りるとき
      ぼくは
      少しばかりの感傷と
      篤い思い入れの深さを知る

      落ち葉が舞い降りた刹那
      掬いあげる
      命のほのほが
      燃え尽きぬ間に
      掬いあげ温め愛撫する

      落ち葉が覚醒するとき
      瞬時の躊躇いもなく
      紙に挟み込む
      たおやかでいてしなやかな落ち葉の生涯に
      尊崇の誠を織り交ぜ
      慈しむのだ

      落ち葉は紙の中で熟成し
      贅肉を落とし
      本質のみを
      形而下の存在として表出する

      ぼくは
      落ち葉を押し
      そのあえかな脆さに
      心を奪われ続け
      落ち葉の生涯に思いを馳せるのだ





植物はドライフラワーに見られるように、殺して乾燥させれば外形を保つのである。



保管の利便性と視認性を確保するために、平らに広げて乾燥させ、紙に張った形で標本とする方法が古くから採られてきた。
もともとは落ち葉を書物に挟んだいわゆる押し葉がその起源と思われる。

乾燥が進んでいるので、押し葉自体はまるでポテト、チップスのようである。
握ると、パリパリと乾燥した音を立て壊れていく。

ぼくは、これらの押し葉を「しおり」にして去り行く年を楽しみたいと思うのである。
本を読む楽しみに付け加えて。





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冬の厳しさが知れるのである

2010年12月28日 | 
冬の厳しさが知れる。
花の美しさに比例するのである。



然して、空の美しさにも比例するのである。
見事な山茶花の木であり、花だ。

童謡「たきび」(作詞:巽聖歌、作曲:渡辺茂)の歌詞に登場することでもよく知られる。
漢字表記の山茶花は中国語でツバキ類一般を指す山茶に由来し、サザンカの名は山茶花の本来の読みである「サンサカ」が訛ったものといわれている。



ここ数日の東京の空は美しい。
寒波の襲来に見事にシンクロするのである。



マンジュシャゲ科の花であると思う。
淡いピンク色が優しく可愛いのである。

山茶花は「かくありなん」と思える存在感がある。



一方、寒椿はザワザワと咲いている。
咲いているし、植え込みのどこからでも花をのぞかせる大胆さと生命力に充ち溢れている。

「百花繚乱」という表現を与えられるのは、やはり寒椿である。
山茶花はいくら花が多くても「楚々と」した、たたずまいであるのだ。

今日、ぼくは年の瀬に来て近所に咲く花を楽しんだ。



梅も楽しめた。



竹が空に刺さっている。
萩原朔太郎が思い出されるのである。

なによりも・・・空の孤高を感じられた。

冬は美しい。







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梅は咲いたか、桜はまだかいな・・・江戸の粋!

2010年12月27日 | 
梅は咲いたか、桜はまだかいな・・・。
と唄った、江戸の洒落気分は見事である。



我が家のご近所の鉢植えで梅が綻(ほころ)んだ。
白梅である。

季節は紅色主流の季節であるけれど、白梅を見つけられたのは嬉しい。



ドウダンの赤。



実生は紫であるけれど、紅葉も楽しませてくれるのは、このブルーベリーである。
今年、我が家のこのブルーベリーは多くの実生を着けてくれた。

小粒だけれど、甘かったのである。
食べても愛(め)でても楽しいブルーベリーである。

ところで今日のタイトルは「梅は咲いたか、桜はまだかいな」である。
江戸端唄のひとつ。『梅は咲いたか』の出だしである。
端唄は小唄ともいう。

いわゆる江戸の俗曲である。

桜は、ジュウガツザクラとかヒガンザクラが咲いている。
これらの桜も、本当は年明けから開花するのであるけれど今年は暖かいのであろう。




     梅は咲いたか 桜はまだかいな 柳なよなよ風次第
      山吹ゃ浮気で 色ばっかり しょんがいな~

     梅にしようか 桜にしよかいな 色も緑の松ヶ枝に
      梅と桜を 咲かせたい しょんがいな~

     昨日 北風 今日は南風 明日は浮名の たつみ風
      恋の風なら 色ばっかり しょんがいな~


唄の内容も粋である。

こうしたメジャーな桜、梅に比して植え込みの目立たない場所に咲く「ボケの花」がいま満開を迎えている。



ボケの花も、来る春の暖かさを期待させるのである。
この植え込みの花はピンクと白のコンビネーションが鮮やかだ。



これは午前の陽射しである。



午前の陽射しは、希望に満ちている。
薄い花弁を通して、陽射しがより柔らかく穏やかに変身する。


     柳橋から 小舟で急がせ 舟はゆらゆら 波次第
      舟から上がって土手八町 吉原へご案内

     恋の浅草 二人で行こかいな 何を言問 都鳥
      末は千鳥で 泪橋 しょんがいな~


江戸の端唄の神髄は、遊び心を唄いあげる。
あるいは遊びに呆ける精神を喝破する。

それを楽しむ。
それも小粋にである。







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