エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

寒木瓜の花

2009年11月30日 | 日記
寒木瓜の花が咲いている。
この場所は、なんだか通年で咲いている印象があるけれど、やはりこの寒木瓜は11月からおおよそ来年の4月くらいまでの開花である。



白、赤、ピンクが入り混じって咲いているのである。

ボケ(木瓜)はバラ科の落葉低木である。
学名Chaenomeles speciosa(シノニムC. lagenaria)。


花言葉は「先駆者」「指導者」「妖精の輝き」「平凡」などとなっている。
この花言葉の理由は定かではないし、その意味はぼくにも分からないのである。



ボケはタイトルでも漢字でしめしたけれど「木瓜」である。
実が瓜に似ているからだとされている。
木になる瓜で「木瓜(もけ)」とよばれたものが「ぼけ」に転訛(てんか)したとも、「木瓜(ぼっくわ)」から「ぼけ」に転訛したも言われている。

日本へは天平時代の帰化植物とされている。
優雅な雰囲気である。

井上靖氏の「天平の甍」を想起してしまったのである。
天平時代、公家たちの坪庭に咲いている様を想像するのは楽しいではないか。

この寒い時期に鮮やかに咲いてくれるだけでも嬉しい花である。



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                     荒野人

ナスカ地上絵の小銭入れ

2009年11月30日 | 日記
謎のペルー人がもたらしたペルー雑貨の中に小銭入れがある。

あのナスカの地上絵がデザインされている財布である。


これは丸型である。
雰囲気のある小銭入れだ。

ぼくはナスカでセスナに乗って俯瞰した地上絵を思い出している。
感動であった。

この時は謎のペルー人と一緒だった。
彼はセスナに弱かった。
旋回して地上絵を見学しているとき、嘔吐してしまった。

確かにセスナは揺れるし、エンジン音と焼けるような匂い、さらには降下や上昇の
繰り返しはきついものがあった。

しかし、ぼくは感動のほうが強かった。


これは角型である。
紙幣を畳んで横のポケットにも入れられる。
使い勝手は良さそうである。

ナスカはNAZCAであり、ペルーはPERUである。
ペルーを日本語では「秘露」と表記する。

ナスカの地上絵は、紀元前2世紀から6世紀の間に描かれたと考えられている。
驚くべき技術である。

もう一つの種類は極めて小さい。


どちらかというと実用というより、ストラップである。

皮のなめしはいまいちだけれど、その珍しさとデザインの面白さで納得である。
そもそもナスカの地上絵で有名だけれど、現地では地上絵というより「ナスカ・ライン」と呼称されるのである。

地平線まで続く真っ直ぐなラインこそが、その不思議なのである。

世界の新七不思議に選出されなかったのは残念だが、ナスカはそれでも色褪せないのである。
因みに、ペルーからはマチュピチュが七不思議の一つに選ばれている。




上は地上絵の宇宙飛行士である。
ガイドたちは「ガチャピン」と言っている絵である。

下の写真は地上絵のある高原の入り口あたりである。
真ん中の下には、ミラドールが見える。
マライア・ライヘが地上絵保護のために監視していた鉄塔である。
この鉄塔からは、手の地上絵が見られるのである。

右下に通っているハイウェイは、アメリ カ大陸縦断道路(パンアメリカン・ハイウェー)である。

ここを走った車の轍(わだち)の後が、いたるところに刻まれている。
その轍が、地上絵やナスカ・ラインを切り刻んでいる。

こうした雑貨をもっと購入して、地上絵を保護する運動は出来ないものかと考えている今日この頃である。
フェア・トレードを現在研究中である。

参考までにこれらの地上絵の大きさを紹介しよう。

地上絵の規模としては、長さ46mのクモ、96mのハチドリ、55mのサル、65mのシャチ、180mのイグアナ、135mのコンドルが挙げられる。
最大のものは、ペリカンかサギ、もしくはフラミンゴを描いたと推測される285mの鳥類の絵である。

大パノラマである。
上空からしか確認出来ないのは当然である。




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                     荒野人


追伸   セスナの降下を効果と表記してしまった。
     変換間違いであって、慎まなければならない。
     これを指摘してくれたぼくの大切な人に感謝するのである。

くちなしの赤い実

2009年11月29日 | 日記
寒気の中だからこそ空気が美味しい。
これは間違いない現実である。



寒気の中でこそ、くちなしの実の赤さが際立つのである。
くちなしの花がかつて放っていた甘い匂いが、この実の赤さを約束していたのかもしれない。

この実は草木染の染料としても供されると聞いた。
頷ける話である。

淡い藍色にでも染め上がるのだろうか。
残された命の炎が燃え尽きるまでに、どこかで出会えれば嬉しい。



         くちなしの赤い実

     赤い実が寒気を切り開く
     そのかつての残り香が
     赤く周囲を染め上げる

     くちなしのあの白かった花弁に
     誰もが息づく命を見た
     いま
     赤い実に
     誰もが憂いを覚える

     刹那の記憶を刻印する
     肉厚な花に
     誰もが称賛を捧げる

     くちなしは
     だから空間を切り裂き
     匂いの世界に君臨するのである
     だからこそシャープに異空間を作り出し
     色の世界にそそり立つのである




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梢を仰いで

2009年11月29日 | 日記
梢(こずえ)が高々と天を突くのである。
いま梢が綺麗なのはプラタナス。



この景色が好きである。
銀杏の梢も見事だけれど、葉が豊か過ぎるきらいがあるのだ。

梢は尖鋭でなければならないと言う事ではない。
それが豊満な女性の魅力のような丸みがあって良いのである。



右はプラタナス、左は桜の梢である。

梢は丸くても良いとした。
その理由は感性への痛みである。

丸い梢に突き刺さると「疼痛」である。
尖鋭の梢に突き刺さると「激痛」が走るのである。

あくまでも印象である。

さて、今日の雲は素敵であった。
まるでダヴィンチかミケランジェロが描くような空と雲であった。



今日の空である。
絵画的な空が現れるのは、決まって良いことがあった日である。




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神宮外苑のいてふ並木の見ごろ

2009年11月28日 | 日記
いま神宮外苑の銀杏並木が見ごろを迎えている。
善男善女がわんさと押しかけて、けだし人を見る気配である。

人が多く集まるところは「傍若無人」になるのは古今東西何処も同じである。

信号を無視して車道で写真を撮る・・・などは当たり前であるのだ。



ぼくはこの晩秋、初めて来たのである。

見上げると黄色。
視線の全てにおいて紅葉が押し寄せてくる。




          いてふのかほり


      そのかほりは
      たとえば
      きみのにほい
      ぼくのうでがぼくのかたに
      ふれたときの
      ときめき

      そのかほりは
      たとえば
      きみのてのひらのぬくもり
      きみが
      ぼくのうでに
      フッとふれたときの
      あたたかさ
      だ

      いてふのかほりにつつまれたとき
      ぼくは
      きみのすべてをうばってしまいたい
      そのしょうどうをおさえるのは
      きみが
      たいせつだから
      きみを
      まもりたいからなのだ

      いてふなみきが
      きみとのあいだを
      うめてくれるように
      ぼくはいのったのだった

      いてふのかほり
      きみのにほい
      りゅうれいとしたくうき
      きみがかんどうする
      いてふのいろに
      いてふのおちばに
      ぼくはなってしまいたい
      とおもうのだ





あくまでも天を突く梢の黄色。
東京の天も捨てたものじゃない。


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