エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

梅真白

2014年01月31日 | ポエム
鉢植えの、真白の梅が散り始めた。
鉢植えの梅は、夕方には玄関の内に散り込む。

咲き初めの頃から、取り込んでいる。
柔らんできた蕾が愛おしかったからである。



花は過保護に愛でたい。
そうする価値はある。
手をかければかけるほど、花は綺麗になっていく。

そうそう、声かけも大切である。
真白の梅が、薄暮の光の中で佇む姿は、あたかも雪女である。







「梅白し夕に取り込む家の中」







「梅早し」とか「寒梅」とか言う、季語の世界も良いけれど、真白の梅を愛でる時には純粋に喜びたい。
梅よ、きみにはその愛情を充分に吸いあげるだけの賢さがある。



だがしかし、自力では動けないから・・・。
君の意思を忖度して、ぼくが手をかけるのである。



        荒 野人

石の仏

2014年01月30日 | ポエム
石の仏と言えば、地蔵を想起するものである。
地蔵の存在感は、例えば道祖神であったり賽の河原の守護神であったり多様である。

また、巣鴨のとげ抜き地蔵は怪我や病を治してくれるとして夙に有名である。
そうした地蔵は全国津々浦々に存在する。
また、僧・行基が巨大なお姿で寺社仏閣を守護する役目を負っていたりする。

石仏と言えば、臼杵の石仏が素晴らしい。
磨崖仏もそうだけれど、道の端にそっと置かれた石仏は清楚に眺められる。

道行きを見守っておられる。
それを祈願して寄進された石の仏は、日本中に数が多い。

街中の六地蔵は、道標となったりしているのである。



今日の石仏は、板橋の寺院にある。
東京大仏の境内にあるのだ。

石の仏は例外なく風雨に晒されている。
従って、その風化が味わいを添えるのである。



大黒天である。
穏やかに槌を振っておられる。







「石仏の小さき影から霜柱」







頭上に、多面の観音を戴いている。
十一面観音である。
どこか、あなたのお母さんに似ていませんか?

魅力的な、優しいお顔である。
包容力に満ちみちている。

藤堂家の所有であったとある。



我慢の鬼とある。
例え、いかに重いものを押し当てられようと、じっと我慢する。

耐えるのである。



三途の川の奪衣婆である。
婆が髭を生やしている。

これらの地蔵は、すべて野晒しである。
野晒しでなければならない・・・そんな風である。



        荒 野人

大仏がおわす

2014年01月29日 | ポエム
東京大仏は、東京の北部・板橋区の外れにおわす。
鎌倉、奈良に次いで日本で3番目に大きいと言われている。



乗蓮寺というお寺さんである。
東武東上線の下赤塚駅から徒歩20分程度の距離にある。
すぐ隣が、板橋区立植物園であって、今頃だと「しもばしら」が見られる。



昨日、ぼくは大仏に逢いに出掛けたのであった。
ここの大仏様は、とても柔和なお顔をしておられる。
線香を一束百円で買い求め、手を合わせた。

何を祈ったのかは、秘密である。
だがしかし、人の幸せを祈った事は間違いない。
俗人的な平凡な祈りである。







「卒塔婆の乾いた音や冬のほとけ」







大仏に祈り、その帰り道には冒険家・植村直己の墓に詣でた。
この寺は、植村直己氏の菩提寺である。



手を合わせていたら、卒塔婆がカラカラと乾いた音を立てて鳴った。
ヒマラヤの風のようであった。
或は、植村氏が暖かさを願っているとでも言うのだろうか。



クレパスの中か、或は雪崩れた雪の底辺か、はたまた降り積もった雪の中か・・・。
植村直己の御霊にぼくは想いを馳せたのであった。
ヒマラヤは寒かろう。
だがしかし、その寒さの中にこそ植村氏の御霊は安んじておられるのだろうと思った。

東京大仏は、ただ黙って鎮座しておられる。
柔和なお顔で・・・。



     荒 野人

枇杷の花

2014年01月28日 | ポエム
予報は裏切る。
裏切る事が、楽しみでもある。
テレビの予報は、当たらなくても良い。
その不可抗力とでも言おうか、当たらないことで予報するタレントが謝る必要は全く無いのである。

ところで、
昨日は、日差しが柔らかく予報と打って変わって汗ばむほどの陽気であった。
この裏切りは良い。
天気に左右される感性は、俳句には不要である。
即人間道・・・である以上、臨機応変乃至断固とした覚悟で日々を過ごしていく。

その中で、名句が生まれるのかもしれない。



ところで、いま街中では花八手や花枇杷が彩りを添えている。
とりわけ枇杷の花は、白く微かにくすんだ花が葉擦れの音ともに揺れている。
枇杷の花は、クチナシの花に似た芳香がある。
けれど、その芳香は幽かである。



幽玄のように薫るのである。
だから径行く人はあまりその匂いを感じる事がない。

意識して、その花を鼻に近づけない限りその甘い香りを自分のものに出来ないのである。
匂いは、風に乗ってどこかへ至福の香りを届ける事も無い。
求めた者にだけ、その至福を享受させるのだ。







「花枇杷や風に逆らい身に留む」







枇杷の花が咲く。
枇杷の実は、手入れをしなくても甘い。
それが当然であるかのように。



この草、田舎では「はこべ」と言った。
摘んで、鶏の餌にしたものである。
足下で、春が進んでいる。



頭上にはモクレンの莟が産毛を輝かす。



見上げれば、赤い夕日が落ちていく。
冬夕焼は、美しいものだ。



       荒 野人

花八手

2014年01月27日 | ポエム
昨日の温暖な大気に感謝。
けれども、今日はとても寒いのである。

寒さと暖かさが繰り返され、やがて春へと季節は移ろうのだ。
その移ろいが楽しい。
24節季72候を紐解きつつ、時間をうっちゃる。
その精神的風景が楽しいのである。



昨日の空は面白かった。
赤味を帯びて地上付近に溜まっている。

そして雲の表面は、掃き上げたように霞んでいたのである。



あたかも、埃を巻き上げているかのようであった。
午後からの強い北風が、暖かさでうっかりした雲を嬲っているのである。







「花八手風に乗りたくもなく触手」







花八手が終わろうとしているけれど、この花はまだ若々しい。
その若さが羨ましい。



嗚呼・・・と嘆息するしかない。
若さは、取り戻せない。
ぼくのブログも又「エピローグ」であるのだから。



       荒 野人