エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

鎌倉を歩く

2014年06月30日 | ポエム
鎌倉を歩くのに、江ノ電は外せない。



極楽寺から鎌倉方面を望む。
鉄路が良い味を出している。



この時期は、紫陽花が見頃なのだ。
けれど、殆ど紫陽花の写真は撮らなかった。



鎌倉は、路地が楽しい。
また、観光客があまり行かない神社仏閣や裏道が楽しい。

苔むした階段の上には、異次元の世界が広がっている。
殆ど、結界を越えるのである。



腹が減ったら、寿司も良い。



この寿司屋は、案内人のM姉によると知る人ぞ知る寿司屋なんだって。
あの夏目雅子の亭主、伊集院静のお気に入りのお店なんだそうである。
この寿司屋の御主人は、伊集院と夏目雅子お二人の仲人なんだ・・・とか。



箸袋も「らしい!」。
鮨を食ったら、寿司屋の角を曲がって、鎌倉文学館へ行くのが宜しい。



玄関である。



玄関へ至るアプローチである。






「緑陰の小径の先の人の影」







このベランダで、ぼくたちは一時間を越えて庭を眺めつつ、俳句を詠んでいた。
風が流れ、老鶯が間断なく美声を披露する。

鎌倉の至上の時間が過ぎていくのであった。



      荒 野人

ながらみ

2014年06月28日 | ポエム
長女の友人が、静岡から実家へ帰省した。
幼子を連れて、車で来たのである。

幼子の名前は「あおい」ちゃん。
1歳半の女の子である。
ぼくの顔を見るなり「じいじ!」となついてくれる。

可愛い子である。



土産が、これ!
「ながらみ」である。
その他、ずっしりと重い酒母によるパンも頂いた。

お土産は、嬉しいものである。



ながらみは、ダンベイキサゴ(團平喜佐古)、学名 Umbonium giganteum は、古腹足目ニシキウズガイ科に分類される巻貝の一種である。
本州・四国・九州の沿岸砂底に生息し、食用に漁獲もされている。漁獲地近辺ではナガラミ、キシャゴなど多くの地方名がある。

分布域では九十九里浜・相模湾・駿河湾・浜名湖など各地で食用に漁獲され、市場にも流通する。
漁獲期は初夏で、軽く茹でてショウガ醤油に浸すなどの料理がある。

けれど、歳時記に記載がない。
ぼくの歳時記は、それほど充実していないからかもしれない。
ネットでも、ヒットしないのであった。

従って「ながらみ」を初夏の季語にして、俳句を詠みたいと思うのである。







「駿河より土産ながらみ爪楊枝」







これは、食べるホオズキの収穫したもの。
大小あるけれど、この大きさの違いは種の違いであって、小さい方位が甘い。

さて、ながらみの季語である。

芭蕉が「季節の一つも探り出したらんは,後世によき賜(たまもの)」(『去来抄』)といっている。
季語を見出すことは新たな季語の発見であるのだ。



        荒 野人



食べるホオズキ

2014年06月27日 | ポエム
ここ数年・・・そろそろ4~5年も経つだろうか。
我が家では、食べるホオズキを実らせることが大切な事になっている。

孫たちが大好きなのだ。
この食べるホオズキ、ペルーの土産で頂いた事がある。
やはり、ペルー原産なのだろうか。



これである。
真中のホオズキは、そろそろポトリと落ちる。
食べ頃を迎えているのである。

甘酸っぱく、爽やかな味わいである。
収穫は、旬になると一日10個から20個は採れる。
今年は、鉢植えは4個。
地植えで4本植えた。



そろそろ向日葵が咲き始める。
そんな時期、食べるホオズキが実り始める。







「青もみじ葉擦れの音の香しく」







これは青紅葉である。
梅雨が明ければ「万緑の候」となる。

山が滴り、若葉が一斉に万緑に衣替えする。

ホオズキの好きな孫たちは、プール遊びに余念が無くなる季節をむかえんとしているのだ。



      荒 野人



朴散華に

2014年06月26日 | ポエム
この年ほど、朴の花を見上げた事は無い。
とりわけ、朴散華という新鮮な言葉に出会ったのが、何かのスイッチを押したのかもしれない。

優れて、仄かな甘い匂いが降り注ぐ気配が嬉しいのかもしれない。



朴の花が香り立つのは、蕾が開き始める頃合いなのだ。
従って、少し早めに木の下で静穏に待つ必要がある。



匂いは、甘く梔子のような感じである。
鼻孔に纏わりつくのだけれど、それほどネットリしてはいない。







「朴の花人見上げさせ色褪せり」







この日、ぼくはこの切り株に腰かけて待っていたのであった。
爽やかな大気の流れがあって、その木の横溢に身を任せる。
自然の佇まいは、静謐の中でしか現れてはこない。



朴の花の散華は、静かに訪れてくる。
花が錆び始める時、散華が終わるのだ。



朴の花が散華するのは、良く分かる。
池には、シオカラトンボが翅を休めていた。

季節が進んでいく。
花が散華する。



        荒 野人

オーケストラを聞く

2014年06月23日 | ポエム
昨日は、昼頃に家を出た。
音楽会に出かけたのである。

昨日の日曜日、たまたま町田の教会でウエルカム礼拝への参加をと思ったのであったけれど音楽会に足が向いたのであった。
町田の教会のミサよりも先に予定が入っていたこともある。

けれど、ランチサービスあり!
の刷り込まれた活字に後ろ髪を引かれたのであった。
教会の提供するランチは、パンの一欠けと一杯のワイン・・・かも。



さて、コンサートの会場は「新宿文化センター」の大ホールであった。
かつて、新宿の文化の拠点は「厚生年金会館」であったけれど、この文化センタのエリアはなかなかに香り高い。

僕の好きなエリアではある。



オーケストラは「東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団」である。
僕は、ブロ友のOさんの御子息がコンサートマスターであることから、賛助会員になっている。
ただし、ご子息は大学を卒業後、いまは社会人となっているが定期演奏会では楽団の一員として弾いている。

昨日の演奏会で、拝見したのだけれど「立派な社会人」の風を纏っておられる。
マリウス君は、きっと何処の社会でも一流で活躍されるのだろうと思う。
そうでなければ、大学時代のヴァイオリンが何だったのかを問われるのだろうと思惟するのである。



大31回定期演奏会のプログラムである。
一曲目のコリオランは、誠に素晴らしい出来であった。
二曲目のプロコフィエフの1番も良かった。

昨日はどうしても外せない用事があって、休憩時間に会場を後にした。
メンデルスゾーンの3番がプログラムであった。

それにしても、この交響楽団の成長は目を瞠るものがある。
若い魂と感性とは、かくまで響き合うと云うのか。
そして、ますます高みへと彼らを誘うであろうことは言を俟たない。

老いさらばえる吾肉体と感性を省みて、憧目しつつ嫉妬するのである。
だがしかし、その嫉妬は嬉しいものである。



「梅雨晴間ヴイオラの響くプロコフィエフ」




       荒 野人