エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

古代蓮の淡き色

2011年06月30日 | ポエム
埼玉県行田市の古代蓮は、満開になれば見事である。
だがしかし・・・チラホラ咲きでもそれはそれは心惹かれるのだ。



咲き具合は、29日の御前で1割に満たないのかもしれない。



昨日ぼくは、古代蓮池の按配を確認するために出かけたのであった。



古代蓮の咲き具合はまだまだだけれど、一つひとつの花を楽しむのには十分であった。






        古代に咲く



      古代に咲くきみが
      いまこうしてぼくの前にあって咲き初めている
      時空の彼方から
      スッと現れたきみが
      瞬間にして時空を移動してしまうかもしれない恐怖
      移動して
      ぼくの前から消滅してしまわないと
      きみはぼくに安寧を与えてくれるというのか
      触れれば
      脆くも崩れてしまうアワアワとしたその肢体にぼくは
      何万年の彼方に
      空想を翔ばしている

      木の川を剥いで
      その繊維を柔らかくなめした布は
      微風に揺れている
      その淡き草木の色彩に染め上げられた布は
      きみの胸を
      その白い肌を包み
      飽きることを知らない

      古代に咲いた蓮の微笑に
      ぼくは憧憬し慟哭した
      相反する矛盾した行為の理由は
      知らない

      だが
      何万年と積み上げた不安が
      ぼくを包みはじめている






ぼくは蓮池の木道を歩く。



歩きながら、ぼくはこの場所にいつきみを連れてこようか!
と考えている。

楚々として咲き初めた今か、それとも満開を咲き競う時か・・・。



古代蓮は、なかなか答えを示してくれない。
たおやかに咲く・・・つれない薄情けである。




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 荒野人


有楽町から上野へ

2011年06月29日 | 日記
有楽町で打ち合わせがあって出かけたのである。
熱い一日で、この夏が思いやられるのはぼくだけだろうか。



いつもは、このカフェの外でいただくのだが今日はあまりにも熱いので店内となった。
涼しい店内で、打ち合わせの内容は深まったと言えるかもしれない。

思い立って、上野駅経由で次なる場所を目指した。
不忍池の蓮池を見たい!
と思い立ったからであった。



睡蓮は殆ど終わっていたけれど、緑が見事であった。
途中、スタバでアイス・カフェラテのトールサイズを買い求めた。

木陰に座って、アッという間に飲み干した。
今日は水分を摂る必要があるのである。
それほど熱い!



不忍池の畔にある茶屋である。
その名も「蓮見茶屋」だ。

ここで、池の緑をたっぷりと吸収して駅に向かうのである。
今日は、この蓮見茶屋の対面にある「ドンレミ」のアウトレットに足を運んだのである。



ビジネス・ホテルの一階にあって、お買い得商品も多い。
今日は、マンゴーのスイーツ、プリン類、ブラウニとカステラの切り落としなど千円程度を買い求めたのであった。

それでも、ボリュームたっぷり!



駅中の花屋を覗いてJRの車両に乗ったのである。
適度の冷房が心地よく、シートに座った途端、眠りこけてしまったのであった。

だがしかし、電車の揺れに誘われたこの不覚が気持ち良いのである。




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 荒野人

アジサイには水煙が良く似合う

2011年06月28日 | 
アジサイの花には、湿気が必要である。
水煙である。



晴天下のギラギラとした太陽の熱は大敵である。
アジサイは直ちに、見る影も無く萎びてしまう。



豊島園のアジサイ園では定期的にミストを発生させ潤いを与えている。
それはそれは幻想的ですらあるのだ。



スペクタクル映画の代表とも言える「十戒」チャールトン・ヘストン主演のあの映画である。
エジプトから奴隷として酷使されていたユダヤ人を、乳と蜜の流れるカナンの地に連れていこうとするモーゼ(ベン・ハー)が、神の力を借りてエジプトの街に悪霊を引きこむ・・その悪霊は、このミストのように街路を流れていくのである。

今は、幸せのミストである。

以前、紫陽花の花言葉は二律背反的に対照的な言葉が並んでいる事を紹介した。
おさらいをしておきたいのである。

「移り気」「高慢」
「辛抱強い愛情」「元気な女性」
「あなたは美しいが冷淡だ」
「無情」「浮気」「自慢家」「変節」
「あなたは冷たい」

とある。
ふむふむ・・・である。



モヤッとしている感じを撮ってみたのだけれど・・・。

アジサイは、もともとは、「あずさい」と呼ばれていたとされている。
「あず」は「集まる」、「さ」は真、「い」は「藍(藍色)」の省略形・・・つまり、「真の藍色が集まっている花」といったような意味合いである。



土壌のph(酸性・アルカリ性)によって、あらわれる花色が異なるとされる。
酸性が強いと青みがかり、アルカリ性が強いと赤みがかるのである。

ミストによって霞みがかかった様は、風情がある。





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 荒野人

密やかな秋の準備

2011年06月27日 | 
路辺あたりに目を凝らして見ると良く分かる。
艶やかな、派手やかな花に目を奪われていると、密やかな季節の進行を見逃してしまうのである。



真紅のセイジの花は、カモフラージュとしては最高の役割である。
この花は、長~く咲いている。
下の方から上に向かって徐々に咲き継いでいく。

一瞬にして人の目を奪う。
そして釘付けにしてしまう。

妖しげでグラマラスな女性のようでもある。



また、梅雨時だからこそ墨田の花火が咲き誇っている。
花が枝垂れているのであって、そこからこうした粋な名前が付いたのであろうと一人合点する。



これ・・・カラタチの実である。
秋になれば「まろいまろい 金の玉だよ」と歌われる。

ぼくの好きなカラタチである。
白い花、青い玉からやがて金色の玉へと移っていく。
そのプロセスが良い。



紫式部の花である。
この花が枯れて、そこにあの小紫の粒が付くのである。

ムラサキシキブは、もう秋の準備に入っているのである。
まだ初夏だというのにである。

この可愛らしい花は、植え込みの奥の方で咲いていた。



不思議である。
植物が感じる季節は、特別なのであろう。

季節の互い違い(襷掛けのように)を楽しく感じる感性は、いつまでぼくの中に残ってくれるだろうか?





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 荒野人

木漏れ日の午後

2011年06月26日 | ポエム
昨日は天気予報に反して、午後まで晴れ間があったのである。
予約の歯医者に行き、麻酔をかけられ、ガリガリと削られ痺れた唇で昼食を認めたものであった。



歯医者の後、公園に出かけた。
木漏れ日がチラチラと眩しい午後である。



これは藤棚である。
適度の木漏れ日が優しい。






        木漏れ日


      木漏れ日がチラチラと揺れている
      生き物の呼気のように
      たゆたう

      まぶたを撫でると
      スッと去り
      頬を撫でると
      爽やかに通り過ぎる

      木漏れ日は
      きみの頬とくちびるを挟み込み
      彼方へと引き寄せるのだ

      甘やかなきみの項と
      くちづけは
      比類なき木漏れ日のようでいて
      形而下の現実であって
      ぼくは
      既に逃れ難く
      虜になっている









木漏れ日の午後







桜の若葉もすっかり大きくなっている。
密集した葉の間から光が洩れるのは、風情があって好きな景色である。



今日は、ぼくの拙い詩と写真と重なった。
少しばかり重かったかもしれない。

もっと・・・人が見て楽しいブログにできる能力が欲しいのである。





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 荒野人