エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

蛍袋

2014年05月31日 | ポエム
かつては・・・日本人がなべて詩心を抱いて生きていた時代。
この花に蛍を入れて、風雅を楽しんでいた。
雅趣の極みである。



昨年の今頃、ぼくはこの蛍袋を俳句にした。

「蛍袋つまんでみたき花のさき」

である。
かなり観念的ではあるけれど、こうした観念も俳句で詠んでおいて不都合はない。



色素を失った白いホタルブクロもある。
この白も、ほど良い。



紫が印象的であればあるほど、白い按配が良いのである。







「風に触れ揺るることなき蛍袋」







こうして、蛍袋の季節が進んでいく。



なんとも、風情に溢れた花である。



      荒 野人

オリーブの花

2014年05月30日 | ポエム
オリーブの花が、平和的に咲く。
そう・・・オリーブは平和のシンボルだから。
鳩が咥えているのも、オリーブの一枝である。



季節はいま、見上げても良いし視野を広げても良い。
どちらにせよ、青葉茂れる候なのである。
身体が内部から浄化される。



純化されるのではない。
浄化されるのだ。



俳句を詠もうとしないけれど、取り敢えず五七五が産まれてくる。
メモを取り、推敲に入ろうとするのだけれど言葉が語り始めるのを待て!
と誰かが叫ぶ。

茂木さんが言っている。
「創造性と云うものは、自分の体験が基礎となっている」
と。

体験を、なまじ濾過する必要も無い。
ありのままに表現する。







「オリーブの蜜吸い花粉散らす蜂」







写生に拘るあまり、変に句をいじってしまう。
その「枷」が外れた。

素直に句が詠める自分がいる。



オリーブの花のように、素直に風に揺れること。
素直に蜜をすわれ、花粉を零すこと。

その全てが美しいのだと思う。



嗚呼、オリーブのバージン・オイルにまみれて歩く。
嗚呼、オイルが甘く香り立つ。

疾風怒涛の俳句道も楽しい。



      荒 野人

十薬・・・どくだみ

2014年05月29日 | ポエム
ドクダミの花が満開になりつつある。
まるで、白十字のような花の形である。



なんという妖しげで、しかしはっきりとした花であるのだろう。
古来から、民間療法の生材のトップに君臨する。
従って、漢字表記は「十薬」である。







「十薬や指立てなぞる畳の目」







ドクダミ茶を飲んだ事もある。
それほど美味いとは思わないけれど、名前からの印象で「毒素」が排出されるのならと軽い気持ちで頂いた。
従って、それほど鮮明に味覚を記憶している訳ではない。



けれど齢を重ねた今、その花弁を指でなぞれるかどうか神経の確かさを確認したい気分になる。
暗がりで咲き、湿った場所を好む。



そんなドクダミであるけれど、何故か懐かしい花である。



       荒 野人

夕焼

2014年05月28日 | ポエム
昨日は、今にも泣き出しそうな空であったけれど、ほんの瞬時甘粒(雨粒)が落ちるにとどまった。
なんとか持ちこたえてくれた空であった。

夕刻、淡く空が染まって初夏の夕焼けらしい色合いを見せてくれたのであった。
夕焼・・・「ゆうやけ」とも「ゆやけ」とも読む。
何とも独りよがりの俳句的読み方である。



だがしかし、作品となって文字になると、その読み方次第で俳味が深くなる。
悠久の歴史に育まれた短詩型文芸の不思議である。







「夕焼雲赤み増すほど愚かしく」







夕焼けには、不思議な魔力が内包されている。
「背信の美徳」と言うべき普遍的な魔力である。

だがしかし「逢魔ヶ時」の夕焼と言う軌跡に酔い痴れてはならない。
そこには恐るべき「陥穽(かんせい)」が潜んでいるのである。
踞(うずくま)っているのだ。

時として、そこにはおぞましき「自己保身」といった陥穽もあるのだ。
これを人は「背信的自殺行為」と称するのである。
まさしく、醜悪な陥穽なのだ。

言い換えれば、独りよがりの資本であり悪行であって人の業とは相容れもしない。
その資本は、膨れ上がっていく。
そのプロセスは、周囲のおどろおどろしたイエスマンが醸成する。
いわば「取り巻きの堕落」なのである。

そこまで言わなくても「老害」の業である。
老害の最たるものは「余人をもって替えられない」と思った瞬間、人は堕落する。
陳腐化するのである。

陳腐化には、組織の閉塞が必ず伴う。
組織が内部から瓦解する、主要な要件である。

自戒しなければ・・・なるまい。



      荒 野人

青嵐

2014年05月27日 | ポエム
昨日は、時ならぬ青嵐。
強い風が吹きまくった。
その風は、南風である。

風は乾燥していて、まことに気分の宜しい一日であった。
だがしかし、夕食の後白雨がきた。
今日の午前中まで降り続くのだと云う。



瓦を積み重ねた塀が、緑を引き立てるのであった。

由利さんは、野人からの「からまつ」退会届を手にしたはずである。
由利さんは心の平安を得たことだろう。



野人の心には「青嵐」が吹いた。
同時に、新たなる俳句への旅立ちが始まった。
断固たる道程が見える。

いま、茂木健一郎さんの著作にのめりこんでいる。
脳科学者である。







「ざわめきの葉裏を見せる青嵐」







茂木は、とりわけ俳句について多くを発言している。
その発言が「正鵠」をえている。
当を得ているのである。

その著作の中に「モーツアルトは演歌をつくれない」というセンテンスがある。
作品はその人の、よって来る経験と学びの結果であるというのだ。
同時に、それを曲げてまで作品を作っても駄目だというのだ。
モーツァルトは演歌を聴いたことがないから、演歌はつくれないのだと喝破する。
見事である。

茂木さんの見解は、今後多くを紹介する事になるだろうと思う。
とまれ、今月末を以てぼくは「からまつ」を退会する。
新たな俳句の旅がはじまるのだ。



      荒 野人