エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

桜咲く

2016年01月31日 | ポエム
寒波が押し掛けて来て、記録的な寒さが列島を襲った。
ぼくが、大好きな奄美大島でも百十五年ぶりに雪が降ったのだ。

結果、珊瑚は白化現象で息も絶え絶えだというのである。
一昨日からは、一点して暖かいのだ。



この桜は、新宿御苑の日本庭園にある桜である。
梅に続く桜は、心に灯をつける。







「寒桜静謐という祈りかな」







こうした桜の佇まいが、例えばメジロを遊ばせる。
メジロは、桜の花で遊ぶ。

蜜を吸っているのかと思えば、花を落として喜ぶ。
それは、ヒヨドリなどもそうである。
何処からとも無く花が散って来たら、その頭上には鳥が遊んでいる。

そう思ったら、見上げて欲しい。
もっとも、桜の花は見上げることでこそ美しさが映える。
青空が背景である事が、その理由である。



     荒 野人


水仙

2016年01月30日 | ポエム
日本水仙は、丸く白い花弁が黄色の蕊を包んでいる。



誠に洗練された花であると思うのである。



いま、見頃を迎える花である。
けれど、残念なのは過日の大雪で茎が薙ぎ倒されてしまっている。

5分咲きなのに、花がもう終り・・・そんな印象を持ってしまう。
残念である。

東京や東京近郊の水仙の名所では、これからが水仙祭である筈なのに・・・である。







「野にありてそっと水仙目覚めつつ」







いま、強く匂うのはこの水仙である。
「ペーパーホワイト」という。

いかにも、白さが際立つ水仙である。



ペーパー細工のように、繊細に咲きつつ匂う。
匂い立っているのである。



     荒 野人

臘梅と・・・

2016年01月29日 | ポエム
臘梅の立ち去り難きほどの匂いは、蠱惑される甘さである。
その甘さは「ほどほど」を知らない。

立ち去ろうとすると、俄に匂い立つ。
後ろ髪を引かれる如き、蠱惑であるのだ。



せめて、慎ましやかであって欲しいのにである。
だがしかし、この季節だけの至福の時間を体験出来るのだ。

そのあわあわとしたオマージュからは、想像もつかない。
許し難い、誘惑であるのだ。







「臘梅や立ち去り難きほつれ髪」







ソシンロウバイが、いま匂い立っている。
隠されている匂いを探す。
それも、楽しい。



     荒 野人


上野東照宮の冬ぼたん

2016年01月28日 | ポエム
藁ボッチに守られて、冬ぼたんが見頃を迎えている。
上野東照宮のぼたん苑、である。

毎年出かける場所だけれど、やはり、清々しい。
なんと言っても、ぼたんの凛然と咲く姿が良い。



藁の家が、冬の佇まいを演出するのである。



何と言っても、淡さが良い。



白さが良い。
嫋やかな女性、否「臈長けた」女性の佇まいである。







「揺籃のただ中にあり冬ぼたん」






蕊を隠す慎ましやかさ、その佇まいが良い。
藁の鄙びた雰囲気が、その艶やかさを引き立てるのだ。



吟行の集団と出会った。
皆さん、句帳を片手に花を見る。
書き付ける。



華やいでいる。



白さに負けていない。
俳句を詠んでいる女性は、若さが横溢している。



年齢を感じさせない、のである。
頭が柔らかいからだろうか。



     荒 野人


ハナニラの一輪

2016年01月27日 | ポエム
今年初めて、ハナニラの一輪と出会った。
彼は、何を勘違いしてしまったのだろうか?

最大級の寒気団が、シベリヤから降りて来ていると云うのにである。
出会えたぼくは嬉しい。
何だか分からないけれど、ウキウキしてしまうのだ。



この冬、三つ目の「スプリング・エフェメラル」である。
福寿草、スノードロップに次ぐハナニラだ。

この春の妖精に、おそらく誰も気付いていない。



薄暮になるかならないかの時間帯であった。







「ハナニラやただ一人の先ばしり」







毎日歩いていれば、必ず何処かに妖精たちが潜んでいるのである。
この妖精たちは、飛天ではないから空を舞う事は無い。

けれども、ぼくたちの心の中に感動と云う飛翔を与えてくれる。



薄暮・・・間もなく魔ヶ時。
魔物に出会う時間帯になるのだ。
危時と書いて「まがどき」と読ませる事もある。

平安の時代、鬼と共生していた歴史がぼくたちのDNAの中に息づいているのである。
そんな、鬼を大切にしなければ・・・と思いつつ節分をやがて迎える。



     荒 野人