エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

タケノコご飯

2015年04月30日 | ポエム
我が家は、最近お米食から撤退した。
麦ご飯あるいは雑穀ご飯となっている。

パンも、小麦パンからライ麦パンのに変えた。
健康のためである・・・というより現状維持を旨とする転換である。
もちろん、毎日食べていた「お甘」とも訣別した。
それも寂しいのであって、時に甘味を楽しむ事としている。

だがしかし、普通週一程度に抑える。

今日のタケノコご飯も、ベースは麦ご飯としてみたのである。



タケノコは、春浅き頃に土を割って世に現出する。
エネルギーに充ち満ちているのである。



よしんば、樹の根っこが有ったってそれを迂回して世に出るのだ。







「春荀の味蕾の刳(えぐ)み心地良く」







このくらいのときのタケノコが美味い。
本当は、まだ土の中に在って土の表層を押上げた頃が良いのだが・・・。
素人には、何処に有るのかが詠みきれない。

麦ご飯とタケノコは良く合うと思った。
美味かったのである。



付け合わせには「独活」のさんばい酢和えである。
歯に染み通るような「透明感」のある食感が嬉しい。

身体の隅々にまで春が染み渡っていった。



       荒 野人

水とチューリップ

2015年04月29日 | ポエム
妙なる取り合わせ、である。
春の水の流れは、穏やかにしてパステルカラーなのだ。
それに引き換え、チューリップは鮮明な個性を示す。



いかなる流れであれ、水面は水鏡となって春の色を映すのである。
春の水は柔らかい。

だからこそ、水面に映る景色も又柔らかいのである。







「帯を成し光映せるチューリップ」







ぼくたちが幼かった頃・・・。
「おまえチューリップだな!」
と云えば「お前鼻の下が長いな」といった意味合い。



自惚れやさん、と云っているのだ。



この景色はもう色褪せているに違いないのだけれど・・・。
水辺の景色の色は、鮮やかに見える。



とりわけ、色彩の命は春の空に舞い上がるようでもある。
春の空が朧なのは、そうした事が理由なのかもしれない。



       荒 野人

花水木

2015年04月28日 | ポエム
花水木が、淡淡と視線の先を見せてくれる。
白であれ赤であれ、その淡さが好もしいのである。



ポトマック河畔の桜の返礼として、アメリカから送られた花卉である。
花水木は、北米の花卉である。

例えば、フリーウェイの街道沿いには花水木が目を楽しませる。
花もそうだけれど、新緑も良い。
新緑も良いけれど、滴るような翠も良い。
翠も良いけれど、秋の紅葉も良いのである。



四季を通じて楽しめるのだ。
従弟のKも、シンボルツリーとして玄関脇に植えてある。
植えた当初は、花が少なかったらしいのだが今では花も楽しめるようになっている。



一青窈の花水木が、楽曲としては有名である。
一青窈には、台湾系中国人の血が体内に流れている。

その歌い方に、そうした血の流れを感じさせるのである。







「宙深く淡き彩り花水木」







俳句に詠むと、一際春の深まりを感じる。



ハナミズキ 一青窈







今日は、夏日になるのだと云う。
あらゆる花芽が、綻んでくる。



        荒 野人

竹の秋

2015年04月27日 | ポエム
竹秋である。
春荀がニョキニョキと天を指してゆく。
新竹が、皮を剥いで伸びてゆく。

それと軌を一にして、竹の葉が茶色に変わっていく。
竹の秋と云われる所以である。



竹林は、まばらに見えるほど手入れが良い。
密集すると、竹の成長を阻害する。

山で、植林した樹の枝打ちをしなければ山が荒れるし、樹は売り物にならない。
木の節が多くなって、柱にはならないし精々「板塀」程度にしかならないのである。



竹林で、耳を澄ましてみるが良い。
さわさわと葉擦れの音が、耳に心地良い。

夢見心地の境地である。







「竹の秋葉擦れの音の流れ来る」







竹林の小径をそぞろ歩くのは、気分が宜しい。
この竹林の横には湧水の流れが、ささやかな音が聞こえてくる。

そう、母の心音のようにである。



水の流れと、葉擦れと・・・それらの音のバランスが安寧を与えてくれるのだ。
竹林の向こうの光が柔らかい。



春荀は、柔らかく美味い。
エグミの細やかさが。良い。



ぼくはひたすら歩いた。
一人で散策していると、刹那だけれど「静謐」に包まれるときがある。

それは、やはり葉擦れと湧水の流れの音が醸し出す「静謐」であるのだ。
無音だったら、静謐は訪れない。

雑味が無ければ、味覚は研ぎ澄まされないのと同じである。
今日、タケノコを頂いた。
採れとれのタケノコである。

明日は、三度目のタケノコご飯である。




       荒 野人


チューリップ

2015年04月26日 | ポエム
春の麗に誘われて、国立昭和記念公園のチューリップと会いに出かけた。
同行は、従弟のK。

見頃は過ぎているけれど、遠目から見ればまだまだ「見頃」である。



昨年は、見頃に訪れた。
やはり同行は、Kであった。



チューリップは、春の季語であって俳句に詠みたくなる姿であり色合いである。
色の多彩さと、形の多様さはバイオ技術の賜物であろうか。

とまれ、何色とでも良く合う。
その柔軟さが良い。







「曲がり角曲がってもなおチューリップ」







水と碧。
優れた取り合わせである。



こうした取り合わせが似合うのはチューリップをおいて、他にあまり例を知らない。



午前中の柔らかな陽射しは、一転して午後には少し意地悪な空模様となってしまった。



遠目だと少し暗い。
雨が落ち始めた空模様である。



それでも、白は美しい姿を見せる。
背景のムスカリの青紫が、チューリップを引き立てる。



ピンクもまた、踏ん張る。
心残りの公園を後にして、Kとぼくは帰路についたのであった。

Kは、初孫の「レオ」が待っている。
お土産を買い求めた。
Kも爺になったものである。



         荒 野人